ヘリオポーズの風(第2話)
 翌日の午後、2人で父さんを見舞ったあとフラットに戻った時の母さんは、とりあえず満足したのか上機嫌に見えた。チャンスと見たピーターは、ジャケットの胸ポケットから2枚のカードを取り出す。
「実は、母さんにプレゼントがあるんだ。今年2年振りに戻ったのも、これのためだったんだけど…。」
「まぁ、改まって。」
「母さん、インターンシップって知ってたよね?」
「もちろん、学生のうちから職場体験させようっていうアレでしょ? あなた応募してたの?」
「一年の時からね。ただ僕の場合、やりたい仕事が取材記者だったから難しくて、4年になってやっと希望通りの条件で研修させてくれるところが見つかったんだ。初めての取材旅行だし、ぜひ母さんを招待しようと思って…。」
 言いながらシャトル便のカード型チケットを渡す。受け取った母エイミーの表情が微妙な変化を見せ始めたことに気付いたが、ピーターは構わず最後まで続けた。
「地球にも地底湖ってあるけど、この衛星はスケールが違う。氷の地表の下に何と海が広がってるんだ。だから一度はこの目で見てみたくて…。土星のエンケラドゥスって衛星で、ちょっと遠いけど一週間とってあるから帰りは定番のミマスにも寄って、ゆっくり土星を眺める時間もあるよ。」
 母エイミーは、カードをひっくり返しながらゆっくりと、表面に印刷されている文字を読んでいるようだった。
「一週間とってあるって…留守にするってこと? 父さんは?」
「大丈夫だよ、病院に頼めば旅行の間、看護ヘルパー付けてくれるはずだし。」
「でもどんな人が来るのか分からないわ…。」
「そんなこと言ってたら、どこにも行けないだろ?」
「…そうだったわね。やっぱり行くのは止めておく。」
 エイミーは静かにそう言ってカードを息子に返そうとする。息子は面くらい、母の手に無理やりカードを握らせた。
「待ってよ母さん。父さんの看病に明け暮れるようになって、もう10年以上経つんだよ。母さんの人生なんだから、ちょっとは息抜きも必要だと思わないの?」
「…その母さんの人生はねピーター、父さんがいて初めて成り立ってるの。」
「分かってるよ、でも今は…。」
「そう。今は父さんがあんな状態で…。だからって私だけ息抜きしてる場合じゃないわ。父さんを一人で戦わせとくわけには行かない、たとえ一週間だけでもね。だって父さんは元気になるために、私たちの許に戻るために戦ってるのよ。誰かに預けて旅行に行こうなんて見捨てるのと同じ。やっぱり間違ってるわ。」
 母の声は変わらず静かだったが、その声ににじむ頑なさと、瞳の異様な輝きがピーターを不安にさせた。今が潮時なのかも知れない。それとももう、遅過ぎたのだろうか…?
「だけど母さん、もう10何年だよ? 再生処置を施してもらったはずなのに、ちっともヴァイタルが向上しない。やっぱり最初のドクターの見立てが正しかったんだ。脳のダメージが大きすぎて、父さんはもう戻れない旅に…。」
 突然、頬に焼け付くような痛みを覚え、母に平手で打たれたことにと気付く。
「毎日病院に通う母さんを見て育ったはずなのに…こんなに冷たい子になってたなんて…。」
 エイミーは涙を流し、声を震わせた。
「父さんが元気になることを信じられないなら、あなたはもうこの家の息子じゃない! 行きたければどこへでも、好きなところへ行きなさい! だけど二度と戻って来ないで! ここは私と父さんの家だもの、父さんを認めないなら出て行ってもらうしかないの!」
 渾身の力で母に肩を押され、ピーターは思わず2、3歩後ずさる。母の表情は能面のようで、生気が感じられなかった。
「母さん聞いて…! 僕だって信じたいけど…現実を見なくちゃ…。」
 母の剣幕がただごとでなく、逆らうのは危険だと判断したピーターは押されるまま、気付けば両親のフラットを追い出されていた。音を立てて重い扉が閉じられる寸前、母が乱暴に投げてよこしたカードの角が額に当たり、切り傷から血がにじむ。
 そして今、ピーターは閉じられた高級フラットの扉を見つめて立ち尽くしていた。
 今ならまだ、父が戻ることを信じると言えば許してもらえるのかも知れない。だが何年待っても、その日は決して巡っては来ないだろう。母もどこかで分かっているから、あんなに激しく否定しようとするのだ。この僕に、父さんを取り戻せる力があればよかったのに…。
 いつしかピーターの目からも、涙が溢れて止まらなかった。そして、どこをどう歩いたのか、気付けば中環(セントラル)駅のホームで、宇宙港行き直通列車の到着を待つ自分がいた。


「やぁ、君も地球から?」
 真っ暗な窓に映る青白い自分の顔を見るのがいやで、ぼんやりと客席の方向に顔を向けていたピーターははっとして我に返った。
「ええ、香港の宇宙港から。」
 戸惑いながら答えを返すと、声をかけてきた相手は若い男女の2人連れで、ピーターの隣の席に陣取った。
「へ〜え、そういえば香港にもまだ行ったことがないなあ。どんなとこ?」
 ピーター・アレンはこの出会いの場面を、縁とは不思議なものだと呟きながら、その後何度も思い返すことになるのだ。
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