ヘリオポーズの風(第5話)
「地面の下に海があるって、どんな感じなんだろう…ピーターお前、想像出来るか?」
「いいえ、全然。実は地球にも地底湖があるって話を聞いたことはあるんですが…実物を見たわけじゃないので…。」
 土星の衛星エンケラドゥス軌道上に停泊中の母船から、上陸を希望する客たちを詰め込んで飛び立ったシャトル船内はとにかく窮屈だ。だが全員が簡易型とはいえスペーススーツを身に着けているため、体感温度は20℃前後に保たれ、呼吸する酸素も浄化されていて実際は人いきれに辟易することもなく、快適そのものだった。
「何だ、お前もその程度か。だがまぁ、事前情報を入れない方が感動も大きいだろうから良しとするか。」
 ハリソンとピーターに挟まれ一段と小さく見えるサリアも考え深げに頷いている。ピーターはシャトルの大窓に目を移し、たくさんの簡易宇宙服のヘルメット越しに、何とか窓外の衛星の様子をうかがおうと躍起になっていた。
「何だか不思議ね…。」
「何がだ? サリア。」
 シーサリア人の少女が、ピーターとハリソンの顔に交互に目をやりながら、悪戯っぽい笑みを浮かべて口を開く。
「だってハリソン、あなたってばいつも、大学3年の夏休みにヘリオポーズの港からいくつものワープ船を渡り歩いて、ヒッチハイク同然でアンドロメダまで旅したって話を自慢にしてるのに、お膝元の太陽系内は一度も旅したことがないみたいなんだもの。」
「そ、そりゃ若いうちは誰だって、大宇宙に憧れるもんだろ?」
「…ピーターも?」
「えっ?」
 急に自分に振られて、ピーターは面食らった。
「遠くに旅してみたいのかしら。」
「…ええと。僕の場合香港とガニメデしか知らないから、それ以外の場所はどこでも遠く感じちゃうって言うか…。」
「それじゃこのツアーも、かなり思い切ったつもりだったんだ?」
 興味を引かれたのか、ハリソンも首を突っ込んで来る。
「…まぁ、取材旅行っていう形式が叶ってれば場所にはどこでもよかったんですけど…前から一度、地底の海ってのを見てみたくて。」
「君は何から逃れたかったんだピーター? 俺の場合、単位に追いまくられる生活に耐えられないと悟ったのがキッカケだったけど…。」
「逃れたかったって言うより、追い出されたクチですからね僕は…。」
 抑えたつもりの毒が口調に滲み出てしまったらしい。サリアはともかく、ハリソンまでが戸惑ったような視線を向けてきたが、そこに到着を知らせるアナウンスが割り込んで、ピーターはそれ以上突っ込まれずに済んでほっとした。

 エンケラドゥスの地表は、凍ったメタンが主成分のはずだが、星間物質として漂っている塵や埃が長年にわたって降り積もり、一見すると地球の岩砂漠の風景と変わらないように見える。
 視界いっぱいに拡がる広大な岩砂漠に点在する洞窟の一つを、ガイドの案内で徒歩で数時間も降って行くと、そこが目的の場所だった。
 洞窟の出口に差し掛かると一気に視界が開け、ツアー客からひとしきり歓声が上がる。その間隙を縫って、まぎれもない潮騒が聞こえはじめた。
「さて皆さん! ここから先が地下の海です。ここまで来れば皆さんの宇宙服のモニターにも表示があるでしょうが、この洞窟を出た先は地球人客用のスペースなので酸素があります。洞窟の出口から半径2キロの範囲は宇宙服なしでも大丈夫ですが、くれぐれもご遠泳などはなさらぬよう…」
 しゃべり合ってのんびり歩いていたため、グループの最後尾に近い位置にいた3人だが、ガイドの説明が終わらぬうちに先ずハリソンが出口に向かって走り出し、すぐにサリアとピーターが続く。先頭を切るハリソンは、数メートルの幅しかない短い砂浜を駆け抜ける間に簡易宇宙服をほとんど脱ぎ捨て、シャツ一枚の格好でバシャバシャと水に飛び込んだ。
「…あれ、しょっぱくないぞ!」
 跳ね上がって顔にかかった飛沫を舐めとって叫ぶハリソンに倣い、どうにか宇宙服を投げ捨てたピーターも海の水を両手ですくって口に含む。
「ほんとだ、真水ですね先輩。」
「ねえハリソン、聞くけど地球の海水ってしょっぱいわけ?」
「そうだな…濃度3%くらいの塩水だから、かなりしょっぱいかも。」
 サリアが納得の表情で頷く。
「そういえばあなたたちって汗も涙もしょっぱいのよね。面白いこと聞いちゃった。やっぱり3%くらいなの?」
「おっと、まさか! 汗や涙は、時にもよるけどせいぜい0.9%くらいらしいんだ。3%もあったら浸透圧の関係で…おいっピーター! 半径2キロだぞ!」
「大して泳げないんで大丈夫、すぐ戻りますから!」
 見るとピーターが、ややぎこちないクロールながら2人の横を掠めていった。
「…仕方ない、しばらく一人にしてやるか。」
「それがいいわ。」
 それを合図に2人はゆっくりと海から上がり、波打ち際に仲良く腰を降ろすと、子供のように泳ぎ回るピーターの姿を見守ることにした。

 ピーターはしばらく、泳ぎ回ることで冷たい水の感触を楽しんでいたが、ふと何かに気を取られた様子で動きを止め、そのまま立ち上がる。
 そして何度も片手で水をすくい、何かを確かめてでもいるようだ。
『真水のはずなのに、海水みたいにベタベタしてる。それに、泳ぎの下手な僕がここまで来れたってことは…。』
 突然意を決したピーターは、再び慎重に水面に入り、そのまま仰向けに転がった。
『ワーオ! 思った通り、この水は塩水以上の浮力があるらしいぞ。』
 ラッコのような態勢で空を仰ぐと、そこには確かに、天井がある。
 地球人用の洞窟だから、太陽光に似た光の照明がどこからか当てられているはずだが、そのお陰でこの時間帯は昼間のように明るく、周囲の様子がよく分かった。
 本来抜けるような青空のあるべき場所を、淡いベージュ色の岩盤が塞ぎ、見つめている間じゅう、今にも落ちてきそうな圧迫感と戦わなければならない。それはまさに不条理の世界だ。
 だけどここは本当なら、こんなに明るくはない。永遠の暗闇で、たまに水音がするくらいの閉ざされた世界だったはずだ。好奇心旺盛な地球人に見つかるまでは。
 そんな発見の瞬間に立ち会ってみたいと、ピーターは何となく思っていた。
 どうやったらこんな風に、暗闇に光をもたらすことが出来るんだろう? 人の心ももっと簡単ならよかったのに。
 実はこの旅のさ中にも、ピーターは何度も、実家である高級マンションに戻ろうと試みていた。つまり夢の中に何度も、堅く閉じられたあの扉が出てくるのだ。
 時には闇の中に扉だけが浮かび、インターフォンさえ見つからないこともあった。それでも何度も扉をノックするが、返事のあった試しがない。心を開いてもらえるよう、自分なりの努力はしたつもりだった。だけどきっと、方法が間違っていたのだろう。
 この旅の中で何か答が見つかればとも思っていたけど、そんなに都合よくは行かないようだ。
 今夜はここでテント泊のはずだから、明日になったらどこかで船を降りて、大学に戻ろう。ピーターがぼんやりとそんなことを考えていると、遠くから人声が漂って来た。
「お〜〜い、ピーター! 生きてるか〜?」
 ピーターははっとして、立ち上がろうと足元を探ったが、そこにあるべきものがない。
 慌てて体勢を整えようとしたのがまずかった。バランスを崩した身体が一気に沈み、大量の水がピーターの肺に流れ込む。
「ごぼッ!」
 水に備わった浮力のお陰でいったんは水面に顔が出たものの、水が入ったせいでほとんど機能しなくなった肺に再び水が流れ込み、ピーターの意識は既に遠のき始めていた。

 目の前にまたあの扉が浮かび、躊躇なく手を伸ばすと、軽く押しただけで難なく開く。
 ピーターの身体は、吸い込まれるように扉の向こうに消えていった。
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