ヘリオポーズの風(第6話)
「あれっ、父さん? いつ戻ったの?」
 ピーターが驚いたのも道理。病院の集中治療ベッドから出られないはずの父が広いリビングの隅でソファに座り、壁一面に映した画像を鑑賞中だったのだ。
 映像はどうやら、ずっと若いころの母さんが映っているらしかった。
「おお、ピーターか。驚いたな、こんな時間に。大学はどうしたんだ?」
 ピーターの視線に気付いた父は、慌ててテーブルの上の端末に触れると壁の映像を消し、息子に向き直る。
「実は、記者として取材旅行中なんだ。インターンシップに応募したらやっと行かせてもらえることになって…。」
「インターンシップか! でかしたぞ。ぜひ応募しろとアドバイスするつもりでいたからな。しかし記者とは珍しい…。」
「…ごめんね父さん。どうも建築家は向かないみたいでさ…。」
「謝ることじゃない。考えてみりゃ、子供の頃からお前は好奇心が強かったし、有名建築家は一家に一人で充分だよ。」
 ピーターはリビングを一渡り見渡すと、父の隣に腰を降ろす。
「ここって、家みたいだけどちょっと違うよね。とっくに捨てちゃったオモチャとかがまだ棚にあるし。父さんの記憶の中のどこかなのかなぁ…?」
「…鋭いな。まあそんなところだが、父さんは個人的に、“緩衝地帯”と呼んでるんだよ。」
「生と死の…ってこと? すごい命名だね。それで、僕を呼んだのはどうして?」
 最後のひと言で、父の顔色が変わった。
「冗談じゃないぞピーター! こんなところへ我が子を呼び出す親がどこにいる? まさか、どうやって来たか覚えてないのか?」
 父親の剣幕に、ピーターもその意味するところを理解して青くなる。
「ここに来る前ってば、確かエンケラドゥスの海で泳…」
「来るんだ、ピーター!」
 突然父親が強引に左腕をつかみ、扉に向かおうとした。ピーターはソファから腰を浮かせながらも足を踏ん張り、
「ちょっと待ってよ、父さん!」
「待つ馬鹿がどこに…」
「僕にだって状況は分かってる。すぐ出てくからちょっとだけ話をさせて。もう長いこと父さんの声を聞いてないんだし…。」
 父親はしぶしぶ頷き、再びピーターの隣に腰を降ろす。
「…ねぇ…父さんは、ずっとここに居たい?」
「旅立つ準備なら、とっくに出来ているよ。」
 父はピーターの眼を真っ直ぐ見つめて答えた。
「それを母さんに伝えるには、どうしたらいいのかな…?」
「実は、もう何度も伝えてあるんだよ。」
「ホントに? どうやって…。」
「…母さんが病室に泊まり込んでくれてる時さ。たいてい、私の手を握ったまま眠りにおちるから好都合なんだ。」
「触れ合ってる方が通じやすいとか?」
「まぁそんなとこだ。だが…。ここへ連れて来て、もう潮時だと何度も話して、母さんも納得して戻ったはずなのに、目が覚めると全て忘れてしまうようだ。どうやら母さんは、ここであったことを覚えていられない体質らしいんだよ。」
 ピーターはしばらく床のじゅうたんを見つめていたが、おもむろに口を開いた。
「何かプレゼントしてみたら?」
「プレゼント?」
 父はまじまじとピーターの顔を見つめ、鸚鵡返しに尋ねながらも頭を働かせているようだ。
「ここにある、もう家では捨てちゃったオモチャとか。何かあればきっと思い出すよ。」
「オモチャねぇ…。そういやお前、そこの宇宙船がお気に入りだったな。」
「ああ、この小さいやつ。3歳の誕生日に、初めて自分でこれがいいって言って買ってもらったんだよ。覚えてない?」
「そうだったか。その後いくら大きくてカッコいいのを買ってやっても、見向きもしないんだから頑固な奴だ…待てよ、それだ!」
 突然叫んで飛び上がった父は、壁際の棚から真珠のブレスレットを取り上げた。
「結婚前にプレゼントしたものだが…2人で外出中に夫婦喧嘩した時、ものの拍子で糸が切れてそれっきりだ。お気に入りだったらしくて、その後もずいぶん責められたっけ。これが戻るとなりゃ…。」
 照れ笑いのような表情を浮かべブレスレットを撫で回す父を見つめながら、ピーターはゆっくりと立ち上がる。
「おお、もう行くか。」
「父さん、僕にも何かアドバイスは?」
 父と一緒に戸口へ向かいながら、ピーターが尋ねた。
「…そうだな。記者になるつもりなら、出来る限り遠くへ行くといい。自身の求むる所に応じて、ってことだが。また会う時に、土産話を楽しめるだろ?」
「また会うつもりでいるんだね。」
「まぁ、厳密には会えるというのとは違うだろうがな。」
「…どういうこと?」
「生きてる間は身体があるから個人として独立してるが、死ぬと個人としての境界がなくなる。だからみんな一緒くただ。星々や空気や水、色んなところに溶け込める。」
「…何だか面白そうだけど。」
「お前にはまだ早い。」
 父はそう言ってウィンクすると、目の前の扉を開け放つ。ピーターは父と握手を交わし、笑顔で外の暗闇に飛び込んだ。
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