コミュニケーション
 梅雨の晴れ間の夕暮れ時、シンヤは川に向かって自転車を走らせていた。
 片手で器用にハンドルを操りながら、出がけにGパンの尻ポケットに突っ込んできたケータイを引っ張り出す。
 彼はこれから、そのケータイを川に投げ捨てるつもりだった。
   色はシルバーで、やや丸っこいデザインはもともとシンヤの好みではなかったが、ユキナが同じタイプのスカイ・ブルーを気に入り、どうしてもおそろいにしたいと言い張ったのだ。
 最後の見納めと切っていた電源を入れ直すと、動作音と共に待ち受け画面に切り替わり、シンヤの通う光洋高校の制服姿の少女の顔が現れた。
 少女の名は岡本ユキナ。丸顔なのに髪をマッシュルームカットにして、両手のVサインを照れ隠しのように口元に当てほほ笑んでいる。
 シンヤはその笑顔を、しばし食い入るように見つめた。

 2人の出会いは去年の4月。入学した高校で同じクラスになったが、席が遠かったこともありしばらくはお互いの存在を意識したことさえなかった。
 ところが2人共同じテニス部に所属したことで声を掛け合うようになり、状況が一変したのだ。
 楽しかった夏休み、8月はじめにあった1週間の課外合宿のあと、気がつけば交際が始まっていた。

 毎日一緒の登下校やクラブ活動が楽しかったし、2人でクリスマスプレゼントを贈り合ったり、初めて“本命”として手造りのバレンタイン・チョコをもらったのもうれしかった。だが新学年のクラス替えで別れ別れになってから、また状況が変わってしまったのだ。
 一年の頃のクラスでは、彼女のおっとりした癒し系のキャラクターも手伝って、公認カップルとして受け入れられ祝福されて、照れながらもシンヤもまんざらでもなかった。ところが彼の進級した新しいクラスでは、同級生カップルなどナンパなママゴト遊びだとして、バカにする風潮が支配的だ。
 楽しいはずのカップルでの登下校も、毎日のように揶揄されからかわれ続ければ違ってくる。彼女には何の責任もなかったのに、八つ当たりで冷たい態度をとってしまったことで、あっという間に崩壊が始まった。
 4日前、2人の口喧嘩はとうとう決定的と言える仲たがいにまでエスカレートした。
 そもそもの非が自分にあることは分かっていながら、正面切って指摘されると、それを認めることがシンヤにはどうしても出来なかったのだ。
 いったん始まった崩壊は雪崩のようで、シンヤは自分の身勝手さ無力さをいやというほど思い知らされ、また癒し系と見えたユキナの性格が突如一変する過程を見せられたことも、崩壊のショックを倍加した。
 だが、それももうすぐ終る。
 このケータイさえ捨ててしまえば、もう丸3日、ユキナからの着信がないことを気に病む必要はなくなり、同じテニス部の他の女子たちにも、気兼ねなく声をかけられる。
 シンヤの自転車は商店街のシャッター通りを抜け、交差点を右折して川沿いの遊歩道に入った。もう少し進めば、この先に栄橋が見えて来る。
 再び後ろ手に尻ポケットに収めるつもりで、片手でフリップを閉じた瞬間着信音が響きわたった。小窓から確認すると、発信元はユキナのケータイ番号になっている。

 シンヤは無意識にフリップを開き、片手運転のまま耳にあてがっていた。
 「…もしもし、シンヤ君? 今、何してるの?」
 「これから捨てに行くところだよ、ケータイ。」
 「そうだったの。どこに捨てるつもり?」
 「カンケーないだろ。」
 「教えて、お願い。」
 「栄橋の真ん中だよ。あそこ、流れが速いっつーから。」
 「…わかった。シンヤ君の好きにすればいいよ。それじゃ。」プツン、と音がしてそれきり切れた。
 引き止めるためじゃなければ、何のための電話だったんだ?
 シンヤは腑に落ちない気持ちで再びフリップを閉じたケータイを見つめ、結局尻ポケットに戻した。
 顔を上げるとすぐ向こうに、栄橋の欄干が見えている。
 そしてその橋の中ほどに、くっきりと浮かぶ人の影も目に入ってきた。川面からの夕陽の照り返しで、輪郭しか分からないがシンヤには間違いようがない。橋のたもとで自転車を止め、飛び降りてから声をかけた。
 「…ユキナ…」
 「…タカハシ君。」
 こちらを振り返ったユキナの頬には、うっすらと涙のあとが光っている。
 「ごめんね、タカハシ君。水曜日にあたし、すごく酷いこと言った。だからずっと謝りたかったの。」
 「謝ったからって、元に戻れるわけじゃないことはもちろん分かってる。だからあたしも、ここにケータイ捨てに来たの。もうおしまいだと思って…。」
 シンヤはユキナの隣に並び、二人は揃ってミヤコ川の流れを見つめた。
 「…それで、とにかく最後だと思ったから、見納めに待ち受けのシンヤ君を見ようとして、そしたら間違えて発信ボタン、いつもの通りに押しちゃって…。」
 「そしたらシンヤ君も、ここに捨てに来るっていうからビックリしちゃって…。待ってみることにしたの。」
 ユキナの真ん丸い笑顔が自分に与えてくれたものは何だったのか、シンヤはゆっくりと思い返していた。
 「確かに君のあの言葉はショックだったよ。でも僕は、そのことで君を責められない。」
 「だってそもそも、2年になって急に君を無視するようになった僕の態度が問題だったんだ。」
 「新しいクラスで皆にからかわれてるって、話してくれたよね。でも私、どうしていいのか分からなかった…。」
 「…クラスの雰囲気が変わったことに、僕は上手く対処出来てなかったんだ。だから一年の時と何も変わらず幸せそうな君が憎らしく思えた。」
 「謝るのは僕の方だよ。今さらどうしようもないことは、僕も分かってるつもりだけど…。」
 川面に映るオレンジの光が鮮やかさを増し、2人の影がいっそう濃くなった。
 「…それじゃ、お互い様ってことで、今回のケンカはチャラにしない?」
 ユキナの明るい声にシンヤは驚いて、その横顔を見つめ返す。
 「そんなこと、できるのか?」
 「私はできる。シンヤ君が無理なら、仕方ないけど…。」
 「ユキナにできるなら、僕にだってできるさ。」
 ユキナはゆっくりと、視線を川面からシンヤの顔に移して、言った。
 「じゃあまず、2人で一緒にケータイ捨てようか?」
 「エッ?…どういうことだ?」
 「だって、このケータイ、シンヤ君はデザイン気に入ってなかったでしょ? ムリして2人でお揃いにすることもなかったのかも知れない。一緒に捨てて、新しいのに変えようよ。ただし今度は、お互い自分のお気に入りにすること!」
 シンヤは一瞬あっけにとられ、ユキナの顔を穴があくほど見つめた。そして…
 「だったらちょっと待っててくれるか? 母さんに遅くなるかもってメール入れておかなくちゃ。」
 「あっそうだ! 私も川を見に行く、って言って出てきただけだもん。」
 「サイフは持ってるのか?」
 「持ってるけど、機種変とかじゃなくて、0円タイプの新規にすればダイジョーブじゃない?」
 そうして2人はクルリとお互いに背を向けると、驚くべき早業で親指一本のメール操作にしばし没頭し、終えるとそのまま、仲良く大型ショッピングセンターのある方向に歩き出した。


 夕焼けに溶け込むように遠去かって行く2人と1台の自転車の影を、じっと見つめる4つの目が宇宙にあった。

 「なんと、驚くべき人々ではありませんか! ケータイとか呼ばれるツールは、ただのキカイですよ。それがあのように奇跡的な飛躍を産み出すきっかけになるとは!」
 「彼らは外見的には、我々にとてもよく似ているから、同じDNAの種から枝分かれした種族なのは間違いないだろう。それなのに、彼らは我々のように思念波を飛ばして直接触れ合うことが出来ない。特異な経路で進化を遂げた種族なのだろうな。」
 「そのようですね。彼らはまず、情報伝達のために共通の言語を生み出し、それを記述するための文字も生まれた。通信手段は進歩してますが、この2つを介さなければ複雑な情報は伝えることが出来ません。まったく非効率も甚だしい。」
 「だがそれにもかかわらず、あのような奇跡的飛躍が至るところで起こっている。さっき君が驚いていたようにな。」
 「推測ですが、歴史を辿れば、彼らも思念波のみで伝え合っていた時代があったのではないでしょうか?」
 「そう思う理由は?」
 「ユキナと呼ばれる少女ですが、間違えて発信ボタンを押したと言っています。もちろん嘘ではないでしょう。自分の脳の無意識の働きを、認識出来ていないだけの話で。」
 「なるほど。調査によればこの種族の人々の脳は、ほとんどの部分が不活性で、巨大な“無意識”の領域を形成している。言語が生まれる以前は、その領域がフル活動していた可能性もあるというわけだな。」
 「ええ。もっとも言語が生み出される前の時代と言えば、彼らにしてみれば有史以前、ということになるのでしょうが。それに、彼らのように優秀な耳を持っていれば、危険が迫った時など叫び声一つで、下手なテレパシーよりずっと効率的なのかも知れませんし。」
 「有史以前のように、彼らの無意識の領域がフル活動する日が再び訪れると思うかね?」
 「コンピューターやインターネットというのは、彼らにとって実に不可思議なツールと言えます。今や誰もが、紙にエンピツで下書きすることなく、キーボードで直接、日記や長い文章を書いている。頭の中の思考と言語が一体化し始めたら、あとは早いかも知れませんよ。」
 「それは実に興味深い予測だな。もうしばらく、ここからの観察を続けるとしよう。彼らが我々の存在に気付くのが、少なくとも数百年先になるという君の予測が正確であることを願ってるよ。」
 「彼らはまだ、空間の歪みを直接検出できるシステムを持っていません。ましてや思念波が、時空を越えて到達する力を備えたコミュニケーション法であるとまでは、数百年経っても認識出来るか怪しいものです。」
 「そうだな。奇蹟の飛躍をもたらす“雪崩現象”さえ起こらなければ、私も君に全面的に賛成だ。」

 軌道上に浮かぶハッブル望遠鏡によって、ヘリオポーズの境界面からわずか数百キロの空間に小さな歪みが観測されるのは、それからわずか数年先の出来事だ。
 だが、その歪みの原因は長い間、解明されることはなかった。


お*わ*り

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