ヘリオポーズの風(第1話)
「見ろよピーター! あそこにいるの、お前の父ちゃんじゃないか?」
 後部座席の級友トミーの声に、8歳のピーター・アレンは思わず身を乗り出し、窓の外に目を凝らした。
 香港島ミッドレベルの住宅地区と金鐘(アドミラルティー)地区の小学校とを結ぶモノレールは交易広場付近にさしかかったところで、広場中央に据えられた台座近くにハイドロ・クレーンが横付けし、そのアーム部分が空に向かって長く伸びているのが見える。アームの先端にはガマガエルに似た巨大なオブジェが3本のワイヤーで吊り下げられ、今まさに、真新しい台座に据え付けられようとしていた。
「わぁ、ほんとだ、あんなとこに立ってる! カッコイイよなぁ…。」
 隣席のマイキーがピーターの肩をひっつかみ、他の級友たちも窓際に集まって来た。著名な彫刻家であるピーターの父ジョウ・アレンは、自らの手になる巨大なオブジェのてっぺんに立ち、ワイヤーの1本につかまりながらクレーンの操縦士に身振りで指示を与えている。
 だが、級友たちの上げる歓声にぼうっとなっていたピーターが次の瞬間に見たものは、がくんと弾むような動きのあと、あっけなく傾いたアーム部と、植物の蔓のように千切れて風になびくワイヤーの先端だった。級友たちの歓声が悲鳴へと変わる中、巨大なオブジェより少し遅れて、父の身体も数十メートル下の硬い地表へ吸い込まれるように落ちていった。

 ピーター・アレンはその後長い間、薄曇りの灰色の空をゆっくりと落ちていく、黒っぽい人影の残像に悩まされることになる。


 ジョウ・アレンは北アイルランドの出身で、才能と情熱に溢れた人物だった。彫刻家としての経済的成功だけでは飽き足らず、自ら音頭をとって有能な建築家や環境アナリスト等と一大プロジェクトを組み、五年ほど前からは連邦政府に働きかけて香港島の都市設計計画事業に深く関わるようになる。不惑の40代を目前に控え、父としてはまさに脂の乗り切った最高の時期に、突然悪夢が襲いかかったのだ。

 そんな父に何もかも頼りきりだった香港チャイニーズの母エイミー・アレンは、現実を受け入れることをはじめから放棄していた。
「…もちろん、脳以外の内臓器官は何とか再生が可能です。今は人工臓器にもいいものがありますし。しかし、肝心の脳がここまで破壊されていては、再生処置を施したところで植物状態が関の山です。提供可能な臓器が生きている今のうちに、どうか脳死判定テストを受けて下さい!」
 待合室にやって来て食い下がるドクターに、母は氷のように冷たい一瞥を返した。
「つまりあなたは、夫の脳が再生する可能性はゼロだとおっしゃるんですね?」
「いや、厳密に言えばゼロではありませんが、しかし…。」
「ドクター。夫はこれまで、何事も途中で諦めたことがありません。もし今言葉が話せたらまだ死にたくないと言うはずです。ですから、脳の再生する可能性がゼロだとはっきりするまでは、私も夫を諦めるわけには行きません。」
 ドクターは肩を落として頷き、待合室を出て行った。ピーター・アレンはこの時母の傍らで、能面のように白いその顔を見上げていた。

 結局、父は巨額の治療費と引き換えに脳を含む全身の再生処置を施され、以後、銅鑼湾(コーズウェイベイ)セントポール病院最上階のICUカプセルに植物状態のまま閉じ込められることになった。
 いつかは夫が目を覚まして、何もかも元通りになると母は頑なに信じ続け、父の許に日参して話しかけることをやめようとしない。彼女ほどの確信は持てなかったが、ピーター・アレンもハイスクール入学前までは、奇蹟が起こる可能性があるかも知れないと思っていた。情熱の塊だったあの父が、そんなに簡単に戦いに敗れるとは思えなかったのだ。だが、何年経っても頭部の腫れが引かず、ヴァイタル・サインも向上しない父の現実を見るうちに、息子は父が、二度と戻らぬ旅に赴いたことを理解するようになった。ただ、母にそれを告げることだけは、どうしても出来なかったが。


 ギャラクシー・イエール4年生の最後の夏休み、ピーターは木星の第3衛星ガニメデにある太陽系キャンパスから、2年振りに実家である香港の高級フラットに戻った。
 再会を喜んでくれると思った母は、会うなり彼を責め立てる。
「よくも今ごろ、のこのこ会いに来られるものね。父さんがどれだけ待ったと思ってるの?」
「ごめん、母さん。明日一番で見舞いに行くから…。」
「…2年よ、ピーター。父さんのような状態の人には、家族の声を毎日聞かせることが大切なのに、よくも放っておいてくれたわね!」
「ガ…ガニメデから毎日通うなんて不可能だと思うけど…。」
「母さんはそんなこと言ってるんじゃない! 週末だけだってかまわないのよ、あなたの出来る範囲で。なのに一度も、連絡さえよこさなかったじゃない!」
「ほんとにごめん…。確かに連絡しなかったけど、2年次からは勉強が思ったより忙しくて…慣れるのに時間がかかってたんだよ。」
 もう父さんには僕らの声なんか聞こえてない、見舞ったところで楽になるのは父さんじゃなく、自分自身の罪悪感だ。そう言ったら母さんはどうなってしまうのか。それが怖くて、喉まで出かかった言葉をピーターは今日も飲み込んだ。
(C)森 羅 2007- All rights reserved
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