陽炎たちの春(第1話)
序 章1

 ジェイムズ・コクランは百ドル札を20枚数え,一人の男の顔写真を添えて,目の前のジプシー女に手渡した。女は受け取った金を間髪入れず、椅子の背に掛かった布製のバッグにつっこむ。
 二人は小さな丸テーブルに向かい合って座っており,周囲は暗い色のカーテンで囲まれている。浅黒い肌の太ったジプシー女は,濃い眉をひそめながら目の前の男に尋ねた。
「あんた、本当にやる気なんだね? この手のことは,いったん始めたら後戻りは出来ないことになってるんだ。それでOKかい?」
 キャンパス地の布の掛かったテーブルの中央には,台座代わりのピンクッションの上に,直系20cmほどの水晶球が鎮座している。暗いカーテンの色を映して全体に黒っぽく,中央部に天井のランプの光を反射させた小さなオレンジの輝きが宿る水晶球の様子は,その向こうでこちらを見つめる女の謎めいた黒い瞳の,拡大版かと思えるほどにそっくりだ。コクランの背中にぞくりと悪寒が走る。だが、今の彼はそんなことにもかまっていられない心境だった。
「もちろんだ。そんなことより,あんたに頼めば結果は保証つきだと聞いてきたが,本当に間違いないんだろうな?」ぎらついた眼を女の鼻先数センチまで近づけ,凄みたっぷりに尋ねる。そんなコクランの迫力にも,女はたじろぐどころか上体をそびやかし,見下すような姿勢をとってやり返した。
「結果が出た暁には,同じ百ドル札をあと三十枚,そっちこそ忘れないでほしいね。」
「あんた、俺が誰だか知らないのか?」
「知るもんかね。だけど、体中から酒の匂いがしてるってのは分かるよ。目も血走ってるしさ,そういう時にはこんな所,来ない方が身のためだと,あたしゃ思うけどねぇ。」
「なに、昨日今日,酔った勢いで思いついたようなことじゃねぇんだから安心しろ。積年の恨みってやつだ。しかしあんたも,金を受け取っておいて説教はねえだろ?」
 女は身体をひねって,背後のカーテンを一気に引き開けた。
「帰んな! もう用は済んだだろ。」
 あんたは知らないだろうけど。女は去ってゆく男の背中に語りかける。呪いってやつは,結局最後には自分に跳ね返って来ちまうものなんだ。なぜなら、呪いたいほど憎い誰かってのは,鏡に映った醜い自分自身みたいなものだからさ。
 あんたが呪い続ける限り,鏡はずっとそこにあって,醜い姿が消えることはないんだよ。


序 章2

「人生なんて,B級のSF映画みたいなもんさ。」
 名探偵ウィルソン・スレイドが言う。
「SFってとこがミソなんだ。恋愛ものや人間ドラマだったら,低予算でも演出や俳優の演技力でカバー出来ちまうからね。
 SF映画で特撮の予算をケチってみろよ! 感動のクライマックスのはずが,とんだお笑いになっちまう。」
 時は夕刻,ニューヨークはマンハッタン島マディソンアヴェニューにあるスレイドのオフィス。彼が喋っている相手はジミー・シールズという青年で,先週起こった連続婦女暴行傷害事件の真犯人だと,スレイド本人と視聴者は知っている。
「おれたち一般市民の人生なんて,だいたいそんなもんさ。アメリカン・ドリームとか言っても,予算を湯水のごとく使って,人生を好きなように操れる奴なんて,ほんとは一人もいやしない。」
「俺は違うね,ミスター・スレイド。」
 青年は顔を上げ,スレイドを通り越して,背後の大窓にひしめくビル群を見つめる。
「これまでだって,自分の思う通りにやってきた。これから先も同じことさ。」そう言って不適に笑うと,別れの挨拶もなく,突然くるりと踵を返して,ドアの向こうに消えてしまう。
 スレイドもカメラに向かって笑顔を返す。マンハッタンの夕景を背に,二枚目スターの面目躍如たる,魅力的なキラー・スマイル。すると突然,画面右下に”次回へ続く”の文字が現れ,CMへと切り換わる。
 米国製人気テレビシリーズ「スレイド事務所」の、有名な第三シーズンの最終話である。
 だが,その後何ヶ月か過ぎ,第4シーズン開幕の時期になっても,続編が放映されることはなく,結局その1ヵ月後のある日,プロデューサー以下数名のスタッフが,製作打ち切りの記者会見を開いた。
 理由としては,主役のスレイドを演じる俳優,ジェイムズ・コクランの体調不良という公式発表だったが,悪いのは体調でなく,主演俳優の人格と品行の方だと,視聴者の誰もがとっくに見抜いていた。だから,打ち切りの本当の原因は,コクランの要求した法外な額の出演料を製作者サイドが頑として拒んだ為だとの,芸能誌の報道も,人々は当然の事実として受け止めた。
 「スレイド事務所」は主役不在で再開のメドが立たず,未完のまま消えゆく運命にあると,誰もが信じて疑わなかった。
 ところが,新たなシーズンは,その2年後に開幕していたのだ。それもなぜか、海を渡った日本で。


第 一 章

 3月のとある金曜日,先週24才になったばかりの川本夏美が,アルバイト先のDTP製作会社に向かうためにアパートを出ると,2階の外廊下で背の高い白人男性とすれ違った。そいつが見慣れない顔で,契約書らしい大き目の封筒を抱えていたので,思わず振り返って目で後を追う。思った通り,男は唯一空室だった夏美の左隣,二〇三号室のドアの向こうに消えていった。
 アメリカ人かな? そうだとうれしいけど。
 父親の仕事の都合で,三才からの19年間を米国で過ごした夏美は,このところアメリカ英語の響きが懐かしくて仕方ない。あの新しい住人は,どこの生まれかまだ分からないが,少なくとも英語が通じる相手なのは間違いなさそうだ。そのうち話す機会もあるだろうから,お近付きになれるといいな。
 いつの間にか,大好きだったテレビシリーズ「スレイド事務所」のオープニングテーマをハミングしながら,長めの前髪をかきあげ,夏美は階段を駆け降りていった。

 結局,その日は残業で帰宅が深夜になってしまい,出掛けの出来事などすっかり忘れた夏美は,ベッドに倒れ込んだだけだった。翌土曜の休日は,疲れていたため一日寝て過ごしそうな勢いだったが,昼近くに電話の音で起こされた。出てみると階下に住む大家のハルエ婆さんで,開口一番,
「見たでしょ? 夏美さん。」と言う。
 何の話かと一瞬戸惑った夏美だったが,すぐに昨日の一件を思い出す。
「ああ、お隣り,新しい方が入ったんですね。どこの国の方なんですか?」
「アメリカ人ですって,いい男でしょう? 何せあたしは,入って頂く男の方は顔で決めてますから。」弾むような声で話し,楽しそうにケケケと笑う。この大家さん,この歳で大したものだと,夏美はいつも思っていた。
「ちょっと預かり物もあるから,よかったら午後にでもお茶飲みにいらっしゃいよ。今週土曜はお休みだったわよね?」こちらのスケジュールも,いつの間にか全てつつぬけ。だが、今回はアメリカ人だという新しい住人のことが気に掛かる。
「それじゃ,午後にでも。」
 こう返事をして二時間後,洗濯を済ませた夏美は,大家さんの好物である海苔せんべいの袋をぶら下げ,1階に降りて大家さん宅の呼び鈴を押した。


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