陽炎たちの春(第2話)
 玄関を上がって引き戸を開けると,そこは“美男の園”。
 大家のハルエ婆さんは,今年73歳にもなるのに大の美男マニアで,古いところでは長谷川一夫やクラーク・ゲーブル,ウィリアム・ホールデンからアラン・ドロンにロバート・レッドフォード,ジェームズ・ディーンは言うに及ばず,第4代ジェームズ・ボンドのピアーズ・プロズナンや「スーパーマン」シリーズのクリストファー・リーヴ,まだ若かったハン・ソロ時代のハリソン・フォードからジョン・ローンやブラット・ピットにまで至る,古今の二枚目スターの大判写真が額に飾られ,居間の鴨居にズラリと並んでいるのだ。だが、正面奥の仏壇の上,一番目を引く場所には,写真は1枚しか飾られていない。他のどの写真よりも大きくて立派な額の中では,旧日本海軍の制服・制帽姿の,目許の涼やかな青年が微笑んでいる。
 昔の肖像写真だから,多少の修正が施されてはいるのだろうが,すっきりと整った目鼻立ちは,当時としてはすこぶるクラスの美青年であったと思わせる。もちろん、彼こそハルエ婆さん最愛の夫,菊田俊夫さんである。
 二人が一緒になったのは昭和19年の5月。太平洋戦争末期のことゆえ,新婚旅行どころか結婚式も挙げられず,一緒に暮らせたのもほんの2か月足らずの間だったそうだ。海軍士官だった俊夫さんは,戦艦武蔵の乗組員として出征し,レイテ湾沖で艦と一緒に沈んでしまった。
 俊夫さんは,ハルエ婆さんの前では口数の少ない,大人しい人で,料理のあまり得意でない彼女の作る食事も,なんでも“うまい”と言って,文句も言わずに食べてくれた。欠点といえば,
「かなりのやきもち焼きだったことぐらいかねぇ…。」と婆さんは笑うが,それとて美男と見れば磁石のように吸い寄せられる,彼女の惚れっぽさの方に原因があったと思われる。
 1階に大家さんが住んでいるタイプの,昔ながらの木造アパートは,老朽化が進んでいることもあって,都内ではほとんど絶滅しかかっている。夏美の周囲でも,ことにその大家さんが独り者の女性だったりすると,何かとうるさいと言って敬遠する友人が多い。確かにわずらわしいこともあり,時代の流れとして当然の成り行きだとも思う。けれど,夏美がこのアパートを借りようと決めた理由の一端は,実はこのハルエ婆さんの存在が大きかったりするのであった。
 きっと何かの巡り合せに違いないと,夏美は思うことがある。それほど,ハルエ婆さんとは気が合い,おしゃべりも楽しい。夏美も,いや,夏美こそは,婆さんに負けない美男マニアであったからだ。
 婆さんの居間の丸いちゃぶ台の上で,老眼鏡の隣に開かれたままで置いてあるのは,レオナルド・ディカプリオの写真集。もちろん,先月誕生日を迎えた婆さんへの,夏美からのプレゼントである。
 香ばしい香りの玄米茶の入った湯呑み2つを盆に乗せ,左手奥の台所からハルエ婆さんが姿を現す。
「お隣の外人さん,あなたが大好きだって言う,何とか事務所の探偵さんにそっくりで。夏美さん,さぞ驚いたでしょうね?」“何とか事務所”とはスレイドのことだろうが,本当だろうか?
「あの,まだチラッとしか顔を見ていなくて…。」答えながら,夏美は持って来た海苔せんべいの袋を開く。
「あらまあ! そうか,昨日の夕方,近所に挨拶に回ってたみたいだけど,あなたは帰ってなかったものね。あ,そうそう。」ちゃぶ台に湯呑みを置いて,いったんは落ち着きかけた婆さんは,両手をついて再び立ち上がり,後ろの仏壇の引出しから,のし紙に包まれた新品のタオルを取り出した。「これこれ。その“探偵さん”からの預かり物。」
 それを聞くなり,夏美は吹き出した。
「おばあちゃん,その人アメリカ人って本当? おばあちゃんが教えたんなら分かるけど,今時は日本人でも,引越しの挨拶にタオルなんて配らないのに…。」
「本人がアメリカから来た,って言うんだから本当だろう? でも,日本語も何とか喋ってたから,ひょっとして日本に来て長いのかも知れないねぇ…。」
「それじゃ,アメリカの連ドラの最新情報については望み薄かなあ。ちょっとがっかり。」海苔せんべいの袋に婆さんより先に手を突っ込み,何枚か取り出すと,1枚を婆さんに渡す。受け取ったハルエ婆さんは,先ず半分に割り,片方をもう半分にしてつまみながら,
「でも今は,衛星チャンネルだとかシーエスだとか,便利なものがあるんじゃない?」と水を向ける。
「そうなんだけど…。やっぱり本国の本放映の時期とは半年ぐらいはズレてるし,生の空気,みたいな情報が欲しいのよね。」
「そういうもんかねぇ。それにしても今日びは,二枚目スターのレベルが随分高くなったよ。年齢も若くなってるし。」婆さんは写真集の中のディカプリオのドアップ写真を眺めながら,しみじみと言う。
「それ,言えてるかも。ゲーブルやホールデンが今出てきても,ただの“気障なジイさん”で終わりかも。
 そうそう,若いって言えば,例のビバヒルの写真集,この間とうとう買っちゃったの。今会社の友達のトコ行ってるから,今度持って来るね。」
「ああ,ディラン坊やのね。カワイイわよねぇあの子!」
「坊やって,おばあちゃん…。」
「だって,あの子達,みんな孫みたいな年なんですもの。」
 その通り。最近の二枚目スターは,ハルエ婆さんにとっては坊やと呼びたい年代である。
「私は,ディランよりブランドンの方が好みだなあ。女の子では,ブレンダとケリー。」
「そうねぇ,ブランドンもカワイイけど,おばあちゃんにはちょっと優等生すぎるかしら。ケリーって子は,いい子だねぇ。今の若い子は,こんないい番組があってホント,うらやましいワ。」
 こんな調子で,おしゃべりが止まらない。この時間が永遠に続けばいいと,二人が思いはじめる頃,たいてい何かしらの邪魔が入るのだが,今回もここで呼鈴が鳴った。
 ハルエ婆さんは前掛けのポケットからマスクを引っぱり出し,それを口にあてがってから扉を開いた。
「おバアさん,どうイタシマシテ? ごビョウキデスカ?」
 戸口から英語圏の訛りのきつい,すっとんきょうな日本語が聞こえて来る。夏美は驚いてせんべいを放り出し,ハルエ婆さんをすかして戸口を盗み見た。
 そこにいたのは,格好こそラフなTシャツにジーンズ姿だが,まぎれもない名探偵スレイドことジェイムズ・コクランだ。夏美は声からしてそうだと気付いたが,彼は“そっくり”というレベルを超え,コクランその人なのだった。
「ああ,このマスク? 気にしないで,ただの押し売り撃退策だから。ぐあい悪そうに見えるでしょ?」ハルエ婆さんが答えたが,
「オシウリ?」コクランは慣用句には慣れていないらしい。
「訪問販売員。」
 婆さんの後ろから夏美が英語で言ってみると,男は分かったというようにうなづいた。
「それでスレイドさん,どんなご用?」
 スレイドさん? 婆さんは何気なく呼びかけたようだが,夏美は立ち上がってしまった。
「ハイ,スイドウのみず,よくナガレません。」
「あらまあ,排水管詰まってたかしら。分かりました。でも今日は土曜だから,水道屋さん呼ぶの明後日以降になるけど,それで大丈夫?」言いながらいったん奥に引っ込み,仏壇の棚からボールペンとメモ用紙を持って戻る。
「ダイジョーブ。イツデモOKネ!」婆さんはメモを取りながらちらちらと夏見を振り返り,
「ちょうどよかったワ。スレイドさん,この子が昨日お話した夏美さん。アメリカに長く住んでらしたから,お話が合うんじゃなくて?」と紹介してくれた。夏美は婆さんに促されるまま,呆然とスレイドと呼ばれる男の前に立つ。
「ワオ! ナツミ。アイタカッタ!」男は顔を輝かせて両手を広げ,夏美は思わず一歩後ずさった。
「おやまあ,あなた方,お知り合いだったの?」
「イイエ,会ウノハ初メテネ。デモ手紙,タクサンモライマシタ。」ぼうっとしたままの夏美に代わって,男が答える。
「まあ,ラブレターかしら。夏美さん,あなたも隅に置けないこと。」婆さんはさも楽しそうに含み笑いしながら,男に手招きした。
「とにかくお上がんなさいよ。おいしいおせんべいがあるわ。いつも夏美さんが持って来て下さるの。」
「センベイ! ナツミの好物ネ!」
 場違いなほどの大声でわめきながら,男は言われるままに上がりこみ,ちゃぶ台の隅に不器用に足を折って座る。男の身長からすると,どう見てもちゃぶ台が低すぎ,すこぶるバランスがよろしくない。
 男の向かいに座り直した夏美は,自分の顔から耳までが,真っ赤に火照っているのを感じた。
 ハルエ婆さんは何気なくスレイドなどと呼んでいるが,ウィル・スレイドなる人物は実在しない。彼がそう名乗ったのだとすると…。
 幸せなハイスクール時代,夏美は実在しないはずのスレイド宛のファン・レターを,いったい何通出したことだろう。むろん返事を期待したことは一度もないが,宛名は本来,ジェイムズ・コクランの名を書くべきところだ。
 夏美がそうしなかったのは,一種のカンのようなものだった。

 夏美が「スレイド事務所」にはまって間もないある日,とある芸能雑誌の読者投稿欄に,夏美のように熱心なファンの女性の,こんな投書が掲載されたことがある。
 彼女はかなりの自信家で,コクラン宛のファン・レターに自分の写真を何枚か同封したそうだ。ところが,2か月ほど経って彼女も忘れかけた頃,なぜか写真だけが送り返されてきた。「コクランには気をつけて。」という奇妙なメモ付きで。しかも,差出人名がウィルソン・スレイドとなっていたという。その一件と相前後して,彼女は何者かから,深夜の無言電話等の明らかなストーカー行為を受けるようになった。怖くなって警察に相談すると,ほどなくして治まったが,あのメモとストーカーのどちらも,コクランだったのだろうか,という内容だった。
 ストーカー行為はともかく,スレイド名義の手紙というのが,いかにも性悪のコクランらしいと,この投書は誌上でひとしきり話題となった。しかし夏美は,その解釈では根本的に何かが違うような感覚をぬぐえぬままだった。
「スレイド事務所」の人気の秘密は,何と言っても名探偵ウィルソン・スレイドというキャラクターの魅力に尽きる。彼は単にハンサムで誠実というだけでなく,ユーモアのセンスが抜群だった。その上,間抜けな警官に手柄を横取りされることがあっても,笑って収める謙虚さも持ち合わせていたのだ。演じるコクランにとって,恐らくこれほど不幸なキャスティングもなかっただろう。なぜなら外見を除けば,彼の性格はスレイドとは正反対。約束が守れず,傲慢で,アルコールと薬物依存の問題があるとの噂が,番組スタート当初からささやかれていた。最後にあのような形でスレイドという,当代きっての当たり役から逃げなければならなかったのも,コクランがそのあまりのギャップに苦しめられていたからだ,というのが大方のファンの見方だった。だが,夏美はそれに対しても,全く違う考えを持っていた。
 苦しめられていたのは,果たしてコクラン一人だけだろうか?
 だから夏美は,スレイドを励ます手紙を書いた。
 曰く,コクランの言動はあなたとは無関係だから,あなたが責任を感じる必要はない,等々。自分の近況を取りとめもなく綴ることもあったが,その端々に必ず,コクランという“実在する影”を抱えた,スレイドの気持ちを和らげるような文章を入れようと心がけた。少女時代の,幸せで罪のない妄想だったのだ。今の今まで,そう信じていた。ウィル・スレイド本人が読んでいるなど,思ってみたこともない。
 バリバリボリ。
 そのスレイドと名乗る男が,今夏美の目の前で海苔せんべいにかじりついている。
「オー! センベイ,初メテ食ベマシタ。ウマイ、ウマイ!」バリボリ。
 瞬く間に,4,5枚ほども平らげてしまう。その様子を見て,ハルエ婆さんが尋ねた。
「スレイドさん,今日お昼ご飯は食べたの?」
「ガハン? オー、食事! 忘レテマシタ!」いちいちテンションの高い男である。
「…やっぱり。ここで何かお出ししてもいいけど,お婆ちゃんの食べるようなものしか…。そうだわ,夏美さん。アメリカ暮らしのご経験あるんだから,あなたが何か食べさせてお上げなさいよ。」意味ありげで楽しげな,ハルエ婆さんの笑顔。だが男は,あわてて首を横に振る。
「トテモ嬉しいケレド,ご迷惑ネ。ダイジョブ,センベイで,おナカいっぱい。」夏美はかまわず,男の腕を引っぱって立ち上がらせた。
「まあまあ。おばあちゃんの楽しみを奪うのもなんだし,せっかく日本まで来てくれたんだから,ウェルカム・ランチってことで。サンドイッチのおいしいお店,近くにあるんだ。色々聞きたいこともあるから,気にしないでついて来てよ。」


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