陽炎たちの春(第3話)
 すでに3時近かったこともあり,駅前のサンドイッチ・カフェは空いていた。壁際の4人がけの席を先ず確保して,セルフ・サービスの注文カウンターに並ぶ。男はフルサイズのBLT,夏美はハーフサイズのツナサンドに決め,レジで代金を払う間,キャッシャーの女の子の眼はずっと男に釘付けだった。
 もちろん「スレイド事務所」は日本で放映されたことはないから,彼を知っているわけではないだろう。だが,何と言ってもアメリカきっての二枚目スターなのだ。夏美はなんだか自分が誇らしくなり,トレイを受け取ると鼻歌混じりに席に戻った。
 「おナカいっぱい」などと言っていたわりには,男は巨大なサンドイッチを2,3口で平らげてしまう。それでも夏美が食べ終わるまで,大人しく待っていてくれた。
「ええと。先ず,あなたを何て呼べばいいのか教えて。ウィル・スレイド? それともジェームズ・コクラン?」と,夏美は英語で尋ねる。丸二年遠ざかっていたので,舌がうまく回らない。
「僕はスレイドだよ,夏美。信じられないかも知れないけど,僕はコクランじゃない。実はコクランの方は,今はニュージャージーにある,薬物中毒患者のための施設に入ってるはずなんだ。」
「…まあ,コクランに関してはそんなとこだろうと思ってたわ。でも,それじゃあなたは,どうやって日本に来たの? アパート借りるのだって,保証人が必要でしょ?」
 スレイドはテーブルに片肘をつき,その掌にあごを乗せて,とろけるような笑顔を見せた。
「ビデオのつけっ放しは,電気のムダだよ。」
「ちょっと,ワケ分かんないこと言ってないで,質問に答えてよ!」
「だから,先週の土曜,ビデオを再生したままで寝ただろ?」
 夏美は首をかしげた。スレイドが何を言っているのか,まだよく分からない。
「そう言われれば…その日は『スレイド事務所』で一番好きな第17話を見ようとしてたと思う。だけどあたし,連日の徹夜仕事で疲れ切ってたから。テープをセットして,再生ボタン押したまでは覚えてるけど,目が覚めたら明け方だったのよね。」
 スレイドがそら見ろ,というようにうなづいた。悪戯っぽく輝く瞳は,よく晴れた日のコバルトの海の色だ。
「その時,僕の世界からは君の寝顔が見えてたよ。はじめは,遠くの家の窓の向こうみたいに暗くて小さかったのが,だんだん大きくクリアになって。そして棟続きの家の窓みたいに近付いたと思った時,思わず僕は手を伸ばしてみた。すると,なぜか君の世界の“窓”は開いていて,窓枠を越えれば渡れるって気が付いたんだ。僕は好奇心を抑えられなくて,渡ってしまった。そして次の瞬間,僕は君の部屋にいて,眠ってる君の顔を見下ろしてたんだ。」
 夏美はじっと,スレイドを見つめる。そしてゆっくりと目を閉じ,ささやくように話し出した。
「『夢と現実って,対極にある言葉のようだけど,実は誰にも区別なんてつけられない。だって,僕らはどこにも見当たらない神の存在を信じてるし,暗闇を理由もなく恐れたりするじゃないか。つまりそれは,現実と言われるこの世界が,僕ら人間の単なる思い込みに過ぎないかも知れないってことの,証明でもあるのさ。そうだろ,ローリー?』」
「スレイド事務所」第17話,ラスト数分の刑務所でのセリフ。境界型の人格障害者で,連続殺人犯として捕まったジェイク・ローリーに,スレイドが語りかける場面だ。
 一気に言い終えた夏美に,スレイドは驚いたような笑顔をみせ,ローリーのセリフを続ける。
「『いつかここを出られたら,そん時は一番にあんたと飲みたいぜ,ミスター・スレイド。待っててくれるんだろう?』」もちろん,終身刑の彼に“いつか”という日が来ることはないが,映像ではスレイドがにっこり笑ってうなづき,そこにエンドクレジットが重なる。彼は夏美のために,テレビ番そっくりの笑顔でシーンを再現して見せてくれた。
「すごいな,夏美。セリフ全部暗記してくれてるの?」
「好きなシーンだけだよ,もちろん。って言っても,どのエピソードもラストのセリフはみんな好きなんだけど…。でも,不思議だね。このドラマ,人気あったんだから私以上に思い入れの強いファンだって,たくさんいそうなのに…。」
「だろうね。けど “窓”が開いてる,と気付いたのは今回が初めてだったよ。そう頻繁に起こることじゃないんだろうな。その時僕の考えてたことと,たぶん関係があると思う。」
「ほんと? どんなこと考えてたの?」
「家に帰りたかったんだ。」


 翌日曜日,二人は夏美の部屋で,何本かの映画やテレビシリーズのビデオを見て過ごした。夏美がスレイドに真っ先に見てほしかったのが,ウディ・アレン監督の有名な『カイロの紫のバラ』という映画だ。
 映画中毒のヒロインが同じ映画に何度も通ううち,その映画の主人公がスクリーンから抜け出してヒロインに恋をするという,何ともロマンチックなアイディアがたまらないこの作品は,『スター・ウォーズ』のハン・ソロ船長や『スーパーマン』に恋して何度も映画館に通ってしまう夏美にとって,大切なバイブルのような作品だ。見終わって,彼女が何度目かのほろ苦い感動にひたっていると,隣に座るスレイドがしきりに首をかしげ,自分とあの映画の探検家の男とは,まるで違うと屁理屈をこねだした。
「映画って,もともとスクリーンに反射した光の映像を見るものだろ? 部屋を明るくしたら消えちまうしさ。あれこそ本当の“イリュージョン”だね。だから,向こうの世界からこっちが見えるなんてこと,現実にはあり得ないだろうな。
 ビデオやDVDの画像はまた別さ。磁気テープやデジタルデータの中に,世界の全てが封印されてる。それをまさに“再生”させるんだからね。その時テレビの画面は,お互いの世界のどちらにとっても,唯一の“窓”になるんだろうな。でもその窓には,いつも鍵がかかってる。」
「…だけど時たま,魔法がかかる。」
「その通り。」
「ええと,実は会った時から気になってたんだけど,その魔法ってもしかして,ハイスクール時代の私が送ったファン・レターと,関係あったりする?」
 スレイドが微笑んだ。魅力的な,まさしく本物の彼の笑顔だ。
「おそらくは。ただ,僕の実在を信じてる人が向こうの世界にいるなんて,最初はびっくりしたけどね。」
 夏美はスレイドの顔から視線をはずし,窓の下の細い坂道を見つめた。
「私だって,確信があったわけじゃないんだよ。あんな手紙書きながらでも,頭のどこかでは“ただの思い込みなのに”って,醒めてる部分があった。」
「それじゃ,どうして書き続けてたの?」
「ほとんど願望だったと思う。あなたとコクランが別人だったらよかったのに…って。あとは,コクランがファン・レターを読みもしない,って聞いてたから,安心して妄想を展開してた,ってこともあるかもね。彼,ほんとに読んでなかったの?」
「うん,でもその前に儀式があったよ。電気の光か何かで,封筒を透かして見るんだ。手紙以外に何か入ってそうだったら,とりあえず封は切る。中のプレゼントが気に入れば差出人は確認するけど,手紙はそのままゴミバコ行き。プレゼントが気に入らなかったり,手紙だけのはほぼ,ゴミバコ直行だったね。」
「あれ? 私,プレゼント同封した覚えなんてないけど,あなたが読んでくれてたのはどうして?」
「最初にくれた手紙に,ポストカードか何か同封してあっただろ? それでコクランが開けたんだよ。でも,すぐゴミバコに行っちゃった。僕は,そのポストカードの文面がチラッと目に入って気になったから,後で拾って,撮影の合間に読んだ。」
 夏美は目を丸くした。
「ちょっと待って。よく分からないけど、撮影の合間って,コクランに戻ってるんじゃないの?」
「第1シーズンまではね。ところが,戻ったとたん,奴は必ずトラブルを起こすんでね。放っとくと,撮影が進まなくなっちまう。しょうがなくて,とにかく仕事のある日は終わるまで,僕が表に出るしかなかったんだよ。」
「“表”って,意識の表面ってこと?」
「そんなとこかな。僕が表に出てるとき,奴は無意識の底に沈んでる。だから,何とか邪魔されずに済んでたんだね。」
「それじゃ,今は? 実在のコクランは施設に入ってるはずだってこの間言ってたけど,どこかで彼と繋がってたりするのかな?」
「う〜ん,自分でもよく分からないけど,下意識下ではおそらくね。はっきりと自覚は出来ないけど。」
「全くの別人ではない,ってこと?」
「僕には分からない。ただ,そう望んではいるけど…。」
 二人は同時に溜息をついた。会話が途切れたその時,夏美はふと,昨日の疑問を思い出し,改めて尋ねることにした。
「そういえば昨日聞き忘れてたけど,アパートの契約のことは? 一応不法入国ってことになるんだろうから…」
 それを聞くと,スレイドはジーンズの尻ポケットから,何やら平べったい物体を取り出したが,それは夏美の目には,アメリカのグリーンカードとパスポートのように見えた。
「まさか,コクランから盗んできたの? いくら何でもそれって…」スレイドは右手の人差し指を左右に振りながら苦笑する。
「よく見ろよ。名義は誰になってる?」
 カードに目を落とし,夏美は絶句した。
 ウィルソン・スレイド。
「そんなに驚くなよ。撮影用のフェイクに決まってるだろ。インクの色とかを変えてあるから,アメリカ人なら一目見れば分かるんだけど,ハルエ婆さんは入国審査官じゃないからね。すっかり信用して,保証人には自分がなる,なんて言ってくれちゃったよ。」
「そうか,不動産屋さんを通さないで,直談判したんだ。」
 夏美はやっと,霧が晴れた気分だった。
「あなたの言った通りね。『カイロ…』の探検家氏とはずいぶん違う。あなた,ずっとうまくやってるわ。」スレイドが得意気に片手でグリーンカードを弄び,夏美がウーロン茶のお代わりを持ってこようと立ち上がったその時,唐突に電話が鳴った。
「ハルエ婆さんかな?」スレイドがのんびりと言ったが,夏美はなぜか慌てた様子で,本棚に使っている白いカラーボックスの上の電話に飛びついた。
「よう,夏美。」
 低いがよく通る男の声だ。夏美は思わず身体をこわばらせる。
「高山さん。もう電話はやめてって,何回も言いましたよね。」
「今,男と一緒なんだろ? しかも,最近越してきたばかりの奴だ。お前も隅に置けないよな。」
「待って,この人はアメリカにいた時の知り合いで…。」
「どうだかな。ま,何のビデオ借りてったのか教えてくれりゃ,そういうことにしてやってもいいが。本当にお前って面食いだったよなあ…」
 夏美は受話器を叩きつけるように切った。両手で電話機を押さえつけ,そのままの格好でほうっと溜息をもらす。
「誰から? 婆さんじゃなかったの?」スレイドの無邪気な声に,夏美は努めて明るい笑顔を作った。
「向かいのアパートに住んでる,元彼氏。」
「ワーオ。フッたの,夏美の方だろ?」
「どうして分かるの?」
「元彼って,日本人なんだろ? 夏美にはニホンジン,向かないね。だって彼等は,従順な女がいいんだろ?」日本人という単語を,スレイドは日本語のまま発音した。
「う〜ん,最近はかなり変わってきてると思うけど,彼が旧態依然としてたのは確か。付き合ってたのは3ヵ月足らずだけど,彼らの女性観が分かっただけでも,悪くない体験かなあ。
 でもあいつ,私が今日の午前中ビデオ借りに行ったこと,何で知ってたんだろ?」冗談めかしてみたつもりだが,最後の言葉でスレイドの瞳がすっと細くなる。聞き逃されるかと思っていた夏美は,胸をなでおろした。
「それ本当か? 嫌がらせにしちゃ,タチが悪いな。何度もあるようなら,一応警察に話した方がいいぞ。」
「うん,もう話したよ。パトロールを強化します,って言ってくれた。」
「そか。なら大丈夫かな。今は僕もいるし。でも,一人の時は気をつけろよ。そいつは間違いなくストーカー系だ。」スレイドの様子はかなり深刻だ。
「うん。私もそうかなって思った。でも,彼って案外気が小さいし,大したことにはならないだろうけど…。とにかく,心配してくれてありがと。」
「スター誌の女の子,覚えてる?」
「読者投稿欄の? もっちろん。私,あの一件がキッカケであなた宛に手紙出すこと思いついたんだもん。」スレイドは一瞬,ほほ笑んだ。
「そう書いてくれたっけね。実は,彼女のカンは正しかった。彼女に無言電話かけまくってたのは,本当にコクランだったんだよ。」
「それじゃ,例の写真を送り返したのは,やっぱりあなただったのね。」とんでもない事実がはっきりしたが,今の夏美は驚かない。
「そうなんだ。あの時はほんとにヤバかったからね。警察沙汰にしてなかったら、彼女は間違いなく襲われてたよ。だって,あの時点で彼は,夜中に何度も彼女の家の近くに行ってたんだから。」今度こそ,夏美も顔色を変えた。
「ウソでしょ?」スレイドは真顔でうなづき返す。
「もちろんほんとのことさ。週末,撮影が休みに入るとあいつは,自分の車でドライブと言っては出かけてた。マスコミにかぎつけられないよう,彼女の家から数ブロック離れたとこに駐車してさ。夜中まで待って家の前まで歩いて,明かりのついた窓をじっと見つめてたり。酷い時には,車に戻った後も,明け方まで写真眺めてオナニーに耽ってる。そんな時はもう…。ただ,奴から離れたかった。でも,あのころの僕は,まだ人目のある撮影所の中でしか,主導権を握ることが出来なかったから。何が起こっても,きっと奴を止められなかった…。」両腕に顔をうずめてしまったスレイドを,夏美は励ました。
「彼女,写真が送り返されたおかげで,ちゃんと警察に通報したじゃない。出来ることをやって,事なきを得たんだから,もう忘れようよ。」
 ようやく顔を上げたスレイドが,それでも憂鬱そうに溜息をつく。
「だけど,それからなんだよ。コクランが本格的に酒やクスリに嵌りだしたのって。」
「だ〜から,それは自業自得だって。手紙に何度も書いたじゃん!」
「それは僕も,そうは思うんだけど…。」
「でしょ? 彼女のこと,放っとけばよかったなんてワケないし,あーもう,気分変えよう!」
 そう言って夏美は,借りてきたビデオテープの山をひっくり返し,中から今の気分にピッタリな1本を見つけ出して,デッキに突っ込んだ。
 「スレッジ・ハマー」のオープニングテーマが流れ,完全にキレてるハマー刑事が一言喋るごとにマグナムをぶっ放し,ほとんどキレそうな上司が怒鳴りまくっている。スレイドは目を丸くして画面を見つめ,
「夏美,まさかこのビデオは,つけっ放しで寝てないよな?」と,震え声で尋ねた。


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