陽炎たちの春(第4話)
 4月に入ると,夏美のバイト先が少し落ち着き,深夜に及ぶ残業が少なくなった。おかげで週末に出かける気力・体力が残り,花見に行きたいというハルエ婆さんの希望を,スレイドとも協力してかなえることになった。
 水曜の昼休みに夏美が買い込んだ数種類の情報誌をもとに,木・金の二晩で婆さんの部屋に集まり場所の検討を行なう。
 結局,“花より男子”の女性陣と,スレイドの好奇心が一致して,おいしい甘味処の多い鎌倉まで,足を伸ばすことになる。
 翌土曜は,刷毛で描いたような筋雲が光る,美しい晴天となった。
 若宮大路の桜のトンネルを,ハルエ婆さんを真ん中に,奇妙な組み合わせの3人がそぞろ歩く。夏美はパソコンを持たない二人のために,駅前のキオスクで買った使い捨てカメラで撮りまくった。時折スレイドが気を利かせて通りがかりの若者に声をかけ,3人一緒に撮ってもらうこともある。
「鎌倉と言えば,やっぱり源頼朝だねえ。」さすがに,婆さんは昔のことをよく知っている。
「これがまた,色白の美男子だったって話でねぇ。女物の着物が,よく似合ったそうだよ。いっぺん会ってみたかったがねぇ…。」だが,話のポイントはいつもと同じである。
「相棒の弁慶ってのが,逆に筋肉隆々の,山のような大男で…。」
「オー,ノー!」右隣のスレイドが,渋面で首を左右に振っている。
「オカマとマッチョの組み合わせネ。日本人は,ゲイのカムアウトする人,ほとんどいないと聞きましタ。ムカシの方が,ズット大胆だったのですネ。」
「違うって!」夏美が目をむくが,
「ゲイって,芸者さんの略でしょう? ウィル。」
「オー! ゲイシャ,フジヤマ。」と、話の軌道はどんどん外れていく。
「サムライ,ハラキリ,スシ…ってか。全くもう,米米の歌じゃないんだからさー。」
「それ、米米クラブのことよね? おばあゃん,よく知ってるでしょう? リーダーの石井さんって人が,また男前なのよねぇ…。」
 いにしえの若宮大路も,この3人で歩くとセサミ・ストリートと大して変わらないと,夏美は思う。それでも彼女にとっては,1年半前の帰国以来,滅多にない楽しい思い出になりそうだった。
 小町通りの中ほどの,間口の狭い小さな甘味処で,生まれて初めての白玉ぜんざいを味わった時のスレイドは,ややおっかなびっくりだった。だが,向かいにある有名な鎌倉五郎の麦田餅を食べさせると目の色が変わり,ジーンズの尻ポケットからコクラン名義のビザ・カードを取り出すと,女性二人を路肩で待たせ,9個入りの箱をゲットしてホクホク顔だ。
 焼きながら売っている大ぶりのせんべいも,彼は3枚を一気に平らげ,中でも七味唐辛子をまぶしたものがお気に入りだと言った。夏美とハルエ婆さんは,ただただ呆れかえるのみ。
「あんこみたいなべたべた甘いものは,欧米人は好かないって,聞いたけどねぇ。」
「って言うより,男のくせにここまで徹底した両刀,ってことがけっこうすごいかも。」もちろん,食べ物の嗜好の話である。
 同じく小町通りの民芸品の店で,女性陣が和紙の栞やレターセットなどを物色していると,スレイドは小さな鈴のついた木彫りのお婆さんのキーホルダーを見つけて来て,嬉しそうにレジに並んだ。またぞろジーンズの尻ポケットを探っているので,夏美が慌てて千円札を握らせる。いくら何でも,数百円の買い物にカードを使わせるわけに行かない。
 買い物を終えて駅へと向かう道すがら,スレイドはハルエ婆さんの顔の横でキーホルダーをチリチリ鳴らし,「おバアさんそっくり,カワイイね。」とニコニコ。帰りの混雑のことを考え、3人は午後3時には鎌倉駅のホームに立って,東京方面の電車を待った。
 ハルエ婆さんは,電車が動き出すとすぐ,舟をこぎはじめる。夏美もウトウトしかけたが,次の北鎌倉で扉が開き,乗り込んできた人影を見て,思わず表情をこわばらせた。その様子に気付いたスレイドが夏美の視線をたどると,カーキ色のスプリングコートをまとった背の低い男が,顔をこちらに向け,扉の横の手すりに寄りかかって立っている。スレイドは呆然と見つめる夏美の耳元で,「彼が高山かい?」と英語でささやいた。
 夏美ははじかれたようにスレイドを見上げ,唇をかんでうなずく。スレイドが心配ないよ,というように,軽やかな笑顔を見せる。だが,横浜を過ぎたあたりで車内が混みはじめ,男の姿は2人の前から消えてしまった。


「僕は,来るべきじゃなかった。」
 ハルエ婆さんを送った後,夏見の部屋のドアの前間で来た時,スレイドが呟いた。
「ちょっと,何言い出すの?」その問いに答えず,スレイドは夏美から部屋の鍵を奪い取ると,自分が先に入って明かりを点け,洗面所や押入れの扉をすべて開いた。安全を確認すると夏美を招き入れ,鍵を手渡す時,彼はようやく口を開く。
「たぶん僕の存在が,高山を刺激してしまってるんだよ。彼にとっては,君を付け狙う格好の理由が出来たわけだ。」
 夏美は暗く濁った海底のようになってしまった彼の瞳を避け,自分の足元を見つめる。
「かも知れない。でも,彼みたいな人には,何だって理由になるのよ。ハルエ婆さんと仲がいいのだって,気に入らなかったみたいだしさ。責任感じてくれるのは嬉しいけど,今現在ここにいる以上,そのことで悩んだって仕方ないって。それより,この先どうするのかを考えた方がいいんじゃない?」
 目を上げてスレイドを見たが,彼は首を横に振り,「とにかく夏美に迷惑かけたくないよ。」とだけ言った。


 ウィークデーに入ると,夏美はまた,夜9時前にはなかなか帰れない毎日に突入してしまった。DTPオペレーターと言うのは,全く因果な商売である。バイトとはいえ正社員と同等の残業を課せられることには,受注産業という性質と,派遣社員並みの時給のよさである程度納得はいくが,その日の帰宅時間が,終わってみなければ分からないという毎日では,フリーアルバイターという身分に甘んじている意味がない。
 仕事そのものは,コンピューターのオペレーション作業で大して難しいこともなく,一人で集中して出来るので,人間関係の煩わしさがないところも夏美は気に入っていた。だがいかんせん残業に追われる日々で,そのおかげで夏美はしばらくの間,スレイドとまともに話せる時間を取れずにいた。
 そんな彼女を尻目に,ヒマを持て余すスレイドは,夏美とハルエ婆さんの部屋に一日おきに入りびたり,婆さんの昔話を聞いたり,「新スタートレック」全178話を始めとする夏美のビデオ・ライブラリーを片っ端から鑑賞するなど,優雅な毎日を送っている。嫉妬に狂った夏美は,とある花の金曜日,とうとう残業を放り出し,定時ピッタリに会社を飛び出してしまった。
 アパートの鍵を開けると,異様な暗がりに,夏美は思わず目を見張った。今日はスレイドが来ている筈の日だ。例によってお気に入りのカウンセラー・トロイの出てくる「新スタートレック」のどれかを見ているのだろうと思ったのだが,6時を過ぎて暗くなっているのに部屋に明かりがない。そっと部屋をのぞくと,20インチのテレビはついているものの,チラチラしたサンド画面が映っている。まさか,退屈してビデオの中に戻ってしまったのでは?
 突然不安になって,夏美が部屋に飛び込むと,スレイドは奥の壁にもたれて座り,抱えたクッションに顔をうずめていた。夏美はほっと溜息をつき,明かりを点けて,スレイドの傍らに肩に掛けていたショルダーバッグを放り出した。


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