陽炎たちの春(第5話)
「ただいま。どうしたの? ビデオ,そろそろ飽きる頃かなとは,思ってたけど。」
 スレイドからの反応はない。訳が分からず,夏美は彼の前を横切って隣に腰を降ろし,その肩に手をかけた。「マイアミ・バイス」でも見たのならともかく,「新スタートレック」にここまで落ち込むようなエピソードがあっただろうか。もちろん,今の夏美のライブラリーに「マイアミ・バイス」のビデオは1本もない。隆 大介吹き替えによるドン・ジョンソンの魅力は捨て難いが,「新スタートレック」だけで90本近くのビデオテープの山なのだ。もっと広い部屋に引っ越せるようになるまで,これ以上テープを増やすことは我慢しなければならない。
 スレイドがようやく顔を上げた。だが,頬にはうっすらと涙のあとが残り,その表情は能面のように凍りついている。
「夏美,どう思う? 僕は本当に生きた人間なのか? それとも,脚本家とコクランが創り上げた,ただの幻影? 僕はこの現実世界で,僕自身の未来を築いてゆけるんだろうか?」
 スレイドの言葉に,夏美は雷に打たれたようなショックを受けた。そして,彼がSTNG(新スタートレック)の第10話「宇宙空間の名探偵」を見てしまったのだと気付く。
 「新スタートレック」は24世紀を舞台に惑星連邦の宇宙艦エンタープライズ号の冒険を描いた米国のSFテレビシリーズで,第10話では本来は乗組員の訓練用だった,ホロデッキと呼ばれるコンピュータ・シュミレーション施設が舞台になっている。20世紀初等,ギャング時代の探偵ごっごに興じるためそのホロデッキに入室した艦長達だったが,あるキッカケでシステムが故障したため,ホロ映像に過ぎないはずの古めかしい銃が効力を持ち,退出も不可能となってホロ・キャラクターのギャング達に殺されかかる。一時は大混乱するが,艦長の機転でギャング達がホロデッキの外に誘い出され,映像に過ぎない彼らは霧のように消えてしまう,というのが大まかなストーリーである。ラスト,一件落着し,故障も直って退出しようとした艦長に,刑事として存在する別のホロ・キャラクターが問いかける。
「あんたが行っても,この世界は残るのか? …家では妻や子が,俺の帰りを待ってるのか?」
 艦長は気休めの嘘も言えず,仕方なく答える。
「正直言って,分からない。」
 そして彼が出て行くと,ホロデッキの扉が閉じ,画面が暗転する。プログラムが終了し,一つの世界が消滅したことの暗示である。
 夏美の大好きな1本なので,手に取りやすい場所にしまってあったのがまずかった。スレイドがホロ・キャラクターに近い存在であることは事実なのだ。それでも…。
 夏美はテレビの上に置いたビデオデッキからテープを取り出し,スイッチを切ってから,スレイドに向き直った。
「『宇宙空間の名探偵』だね。一人で見せてごめん。一緒に見られればよかったね。」
「謝るなよ。一緒に見たところで同じさ。自分の正体を,いやと言うほど思い知らされたよ。僕が窓の外に出ちまったのは,やっぱり物理法則を無視した,間違いだったってことなんだ。」
「ちょっと待って。いくら何でも,まだ結論出すには早過ぎるよ。
 実はSTNGのこのエピソード,シリーズ前半じゃ一番人気で,本国では賞も取ってるんだけど,どうしてだと思う?
 ラストのホロ・キャラクターのセリフ,さっきあなたも別の言い方で尋ねてたけど,あれって本当は,現実世界に生きる私たちの不安でもあるからなんだ。結局私たち人間にしたって,自分の意志で生まれて来た人はいないし,あなたやホロ・キャラクターと何も変わらない。国や町や学校や,所詮は自分たちで作った“社会”という幻の中でしか,生きていけない存在になってるもん。幻の中で漂ってるだけなら,自分は何のために生まれたか,とか余計なことは考えなくていいんだし。
 あなたから見たら,社会という枠があるだけでもしっかりした大地のように見えるのかも知れないけど,本当はこの世界,誰にとっても不安定で,一瞬先は闇なんだよ。」
 じっと聴いていたスレイドはしかし,深い溜め息をつく。
「確かなことが一つだけある。この世界で生きていくつもりなら,僕には決着をつけなきゃならない問題があるってことだ。」


 次の一週間は,ほとんど雨が降り続いた。
 月曜から水曜まで,深夜に及ぶ残業が3日間続き,木曜の朝には起きる気力もなくなった夏美が,遅刻を承知で布団の中でグズグズしていると,突然電話が鳴る。出てみるとやはり高山からで,喋り出される前に叩き切ったが,仕事に行く気はすっかり失せ,そのまま会社に電話を入れて,頭痛で一日休むことにしてしまった。
 今朝はまだ,雨は降り出してこそいなかったが,空はどんよりと重たく,気晴らしに出かけたい気分にもならない。とりあえず掃除と洗濯を済ませることにした夏美は,部屋着に着替えると先ず洗濯物カゴを引っつかみ,ふと気付いて居間の大窓を開け放つ。すると,階下のハルエ婆さんがホウキを持って表の通りに出てきたところで,建てつけの悪い窓枠の音を聞きつけ,顔を上げて夏美と目が合った。
「あらまあ驚いた。今日はお勤めは何時? 遅刻じゃないの?」
「ナマケ病で,ポカ休しちゃいましたぁ!」
「まあ,明るい病気だこと。お時間あるなら,午後にでもお茶飲みにいらっしゃらない?
 207号の松井さんから,おいしそうなクッキー戴いたの。」
「やったー! それじゃ2時ごろ,うかがいま〜す!」
ちらと,スレイドのことが頭をかすめる。今日もどちらかの部屋で過ごすつもりだろう。だが,今日だけはハルエ婆さんと2人だけで,女同士の話がしたかった。彼には悪いが,訳を話して1人で時間をつぶしてもらうしかないだろう。夏美はハルエ婆さんに,スレイドが本来は実在するはずのない人物だということも含め,全ての経緯を打ち明ける決心をしていた。ひょっとしたら,そんな怪しい人物はアパートの契約を取り消されてしまうかも。それでも,話しておくべきなのだ。


 ハルエ婆さんは初めのうちこそ,テレビ画面の向こうからひょっこりこちら側に渡って来た,という夏美の話を信じようとしなかったが,そこは,73歳の今でもブラピ見たさに「オーシャンズイレブン」などという映画を1人で見に行ってしまう婆さんのこと。程なくして事実を受け入れ,共に考える態度を示してくれた。
「あなたの高校時代の思い込みのせいで,開くはずのない“窓”が開いた,ってことは,確かにあるかも知れないわ。でも,どうしてそれで悩んでるの? 本物のスレイドさんに会えて嬉しいんでしょう?」婆さんはそう言いながらちゃぶ台の上の英国土産のショートブレッド・クッキーを一切れつまみ,紅茶にひたしておいしそうに食べた。
「もちろん,私はすごく嬉しいんです。できるならずっと,ここで暮らしてほしい。だけどかんじんのウィル本人がどう思ってるのか…。こっちへ来たりしなければ、悩むこと何もなかったはずだから…。」
「でもねぇ。窓を開けたのはあなただとしても,開いてることに気付いてこっちへ渡って来たのはスレイドさんの意思でしょう?」
「あれ? そうか。」
「おまけにスレイドさん,“家に帰りたくて”渡って来たって言ったんでしょう? ひょっとしたら,遠まわしのプロポーズかも知れなくなくて? 彼,ほんとはあなたと家庭を持ちたい,って言いたかったんじゃない?」
 夏美は,つまみかけたクッキーを取り落としてしまった。
「まさか! こっちに来るまで,一度も会ったことないのに?」
「夏美さん。私は,彼ともっとちゃんと話して,きっちり確かめるべきだと思うわ。」
 ハルエ婆さんのアドバイスは,事実ならそれこそ天にも昇るような喜びだ。だけど…。と,夏美は思う。自分が本当に好きなのは,ニューヨークの彼の事務所で,捕らえられた犯人に向かって安っぽい哲学や人生訓を垂れている,テレビ画面の向こうのスレイドなのではないか? ゲットーやハーレムで育った,彼等どうしようもない犯人に向けて,スレイドはいつも,幸運を祈ると言って最も魅力的な笑顔を見せる。同情とは次元の違う温かみがあり,どんな人生も肯定しようとする強い意志を秘めた笑顔だ。そんなウィルソン・スレイドにとって,帰るべき家は1つしかないように,夏美には思えるのだ。
 ここまで考えて,夏美はやっと何かがふっきれた気がした。
 ウィルも自分も,今は長い旅の途中。縁あって袖擦り合っただけなのだ。この縁がいつまで続き,最終的に2人がどうなるのか,誰にも分からない。ならばせめて一緒にいられる間だけでも,楽しい時間を過ごしたい。それでいいのかも知れない。
 夏美がそう言ってみると,ハルエ婆さんも大きく頷いてくれた。
「これまで誰も経験しなかったことが起こってるんですもの。とりあえず流れに任せるしか仕方ないのも当然よね。契約のことは心配しないで。家賃さえ入ってれば,誰も疑う人はいないんだから。 …そういえばスレイドさん,お金はどうしてるの? いくら何でも,この辺で働いたりしちゃまずいでしょう?」
「ジム・コクラン名義のクレジットカード,一枚くすねてきちゃったみたい。でもついこの間まで一人の人間だったし,サインも本物だから犯罪には当たらないだろうけど…。向こう2年くらい,家賃払って暮らして行けるだけのお金は大丈夫だって,言ってました。」
「コクラン? ああ,役者さんの名前だったわね。その人,テレビの放送が終わってからずっと,行方知れずなんじゃなかったの?」
「ウィルの話だと,今はニュージャージーの薬物中毒患者のための施設に入ってるはずなんですって。彼とは,下意識下のどこかでつながってて,離れてても何となく分かるみたい。ただ,ヤク中だとあまりアテにならないらしいけど…。」
「一卵性の双子で,そういう話を聞いたことがあるけど,きっと同じようなものなんでしょうね。何だか面白いワ。でもそうなると,そのコクランって人の立場はどうなるの?」
「そこなんです。ウィルがいつも悩んでるけど,私もどう考えたらいいのか分からなくて,壁に突き当たっちゃう。」
 自分とスレイドの今後については,開き直ることですっきりしたが,こと本人同士の問題となると話が違う。夏美はスレイドにこのままコクランとは別の道を歩んでほしいが,それは許されることなのだろうか?
「…そうねぇ。私もこればっかりは,今日初めて話を聞いたばかりだし…。今の段階では,夏美さんはどう思ってるの?」
「う〜ん。一番いいのは,ウィルがまたビデオを通してコクランのとこに戻って,本人同志で話をつけることだと思うけど…。簡単に納得してくれないだろうし,裁判で争うハメになるかもだけど,どっちかに死ねなんて判決はないと思うから,最終的にはグリーンカードやパスポートも別人として作ってもらえるようになるんじゃないかなぁ…。」
「スレイドさんと、もうその話はしたの?」
「鎌倉行った日の夜,ちょっとだけ。でも,そのときはまだ私の考えもまとまってなかったから,気休め程度のことしか言えなかったけど…。」
「だったら,早い方がいいわ。さっきも言ったけど,この件はスレイドさんとじっくり話し合うべきよ。よかったら今度の土曜にでも,彼とここへいらっしゃい。三人寄れば文殊の知恵,って言うでしょ? お婆ちゃんも,及ばずながら力になるから。」
 あくまでも前向きなハルエ婆さんの声につられて,夏美も笑顔を返す。
 その後2人は,夏美の持ってきた「ビバリーヒルズ青春白書」の写真集をちゃぶ台に広げ,いつ果てるとも知れぬ美男ハントを開始した。


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