陽炎たちの春(第6話)
 陽がどっぷりと暮れ,とうとう降り出した雨に濡れながら夕食の買い物もついでに済ませた夏美が部屋に戻ると,あんのじょう,スレイドがテレビの前に座っている。夏美が声をかけると,
「おカエりィー!」という,すっとんきょうな日本語の返事が返ってきた。その瞳に,コバルトの海が戻っている。夏美がごていねいに「おすすめ品」と書いたメモを貼り付けておいたビデオを見て,新たな感動があったに違いない。
 STNG第133話「機械じかけの小さな生命」の入ったテープだ。このエピソードは,自意識が芽生えてしまった小さなロボットの基本的人権を認めさせようと,アンドロイドのデータ少佐が奮闘する物語である。
「ハルエ婆さんとは楽しかった?」
 いったんキッチンに引っ込んだ夏見が,2つのマグカップにウーロン茶を注いで戻って来ると,スレイドが尋ねた。
「うん。『ビバリーヒルズ高校生白書』の写真集,すごく喜んでた。」
「ディランのファンなんだっけ。すごいよな。」
「あ,知ってるんだ。ひょっとして,本国で見てた?」とたんに,スレイドの表情が曇る。
「あんまり思い出したくないけどね。コクランが…。あいつ,ケリー・テイラー役の女優が好みでさ。本人に会わせろってしつこくねじ込んで,プロデューサーを困らせてたんだよ。」
「それじゃ,『STNG]』は? まさか,見てたよね。」夏美は慌てて話題を変えた。が,驚いたことにスレイドは首を横に振る。
「もちろん,名前ぐらいは知ってたよ。でも,コクランは筋金入りのSF嫌いで有名だったからね。」
「マジ? それって,かなり珍しいかも。」
 夏美は目を丸くした。日本人ならSF嫌いで普通だが,スタートレックも見たことがないなんて,十億総オタクと言われるアメリカでは,ほとんど変人の部類である。
「でも,おかげで今,退屈しないで済んでるよ。今日見たエピソードにも,色々考えさせられたしね。」
 一つ頷き,夏美は空のマグカップを持ってキッチンに立った。お代わりのウーロン茶を注ごうとして,ふと夕食がまだだったと思い出し,そのまま30分ほどで簡単な根菜のスープ煮込みを作って,鍋ごと居間のテーブルに運ぶ。その上に散乱していたビデオテープや雑誌類は,スレイドが部屋の一隅に片付けてくれていた。二人はしばらく,無言で料理を味わった。
「…それで,今日TNG見てて思ったんだけどさ。自分はこの間見たホログラム・キャラクターって言うより,データ少佐の存在に近いって気がしてきたよ。」食べ終わった皿を脇へ押しやりながら,スレイドが言う。
「彼も人の作ったアンドロイドだけど,現実世界でホロ・キャラクターみたいに消滅したりしない。そして何より,本物の人間のいるこの世界で,生きて行きたいと願ってる。」
 夏美はほほ笑んだ。
「データ少佐って,TNGではたぶん一番人気のキャラじゃないかな。何てったって,人間なら子供を作れば自分の遺伝子を残すのも簡単だけど,データは全宇宙でただ一人の,夢の陽電子頭脳だもん。SFならではの,すごくユニークな存在だよね。私も,何人かいるお気に入りキャラの一人なんだよ。」
「それ,僕もこの世界で人気者になれるかも,ってことなのかな?」
「あっ,そうそう。実はハルエ婆さんにも,本当のこと話してあるんだ。先のこと考えたら,隠したままはよくないと思って。で,思った通り突拍子もない話を信じてくれたし,今度の土曜,お婆さんの部屋に集まって,3人で今後のことを話し合いましょう,って言ってくれた。きっと,何かいいアイディアが見つかるかもよ。」
「驚いたな。僕も婆さんに相談出来ないか,考えてたところだ。すごく嬉しいよ。ありがとう,夏美。」
 鍋の向こうに,スレイドの心からの笑みがあった。
「お礼を言いたいのは私の方。何があるか分からないのに,こっちの世界に来てくれて私もすっごく嬉しい!」
 突然スレイドが顔を寄せ,夏美の鼻の頭に口づけした。驚いて真っ赤になり,立ち上がって食器を片付け始めた夏見を,スレイドは面白そうに見つめていた。

 皿洗いを手伝ってくれたスレイドにコーヒーを振舞い,戸口まで見送ったのが夜の9時頃だった。キッチンでそのコーヒーカップを洗っていると,今日2度目の電話のベルが聞こえた。
「もしもし,お婆ちゃん?」
 てっきりハルエ婆さんだと思って明るく呼びかけた夏美は,返って来た無機質な沈黙で,電話の主を悟った。背筋がぞくりと震え,部屋の気温が一気に2,3度は下がったように感じる。
「仲がいいんだな,あの婆さんと。今日は仕事を休んでまで,何をしゃべくってた? 俺の電話がウザイって相談か? それとも,隣の男と付き合いたいって話か? 教えてくれりゃ,すぐに切ってやるぜ。」
 相変わらず不景気な暗い声で,何だか疲れ切ってやっと喋っているような話し方だ。
「何言ってるの! どっちでもないわ,ただの世間話よ。お婆さんと私,話が合うの知ってるんでしょ?」
「鎌倉は楽しかったか?」
 夏美は,一方的に電話を切った。今の今まで,忘れていた静かな雨音が,急に部屋に忍び込んで来たように,夏美には感じられた。

 その後2日間,雨は断続的に降り続き,土曜の午後には局地的に,雷をともなう大降りとなった。
 落雷の大音響が響く中,夏美は近くのコンビニで,最近ハマっているわさび味のかっぱえびせんと,梅しそ風味のポテトチップを買い,ハルエ婆さんの部屋を目指す。“甘味担当”はスレイドで,オレオクッキーを持って行くと言っていたが,たぶん彼の方が先に着いているはずだ。夏美は寝坊して,約束の時間に遅れていたのだ。
 呼鈴を押そうと手を伸ばしかけ,夏美は思わず顔をしかめた。よく見ると,扉が細目に開いている。夏美が来ると分かっているからだろうが,婆さんやスレイドにしてはいくら何でも無用心だ。アメリカの大都市ほどではなくても,最近の東京はかなり物騒な都市なのだ。
 部屋の中から物音がいっさいしないのも,何やら不気味である。きっと2人のことだ,何かいたずらでも仕掛けているに違いない。それなら引っかかってやろうと,夏美は呼鈴を押さず,両手で勢いよく扉を開いた。

 最初に感じたのは,むせ返るような血の匂いだ。次に,居間の中のスレイドの姿に気付いた。彼はちゃぶ台の左手で,呆けたように畳に両膝をついていた。靴を脱ぐのも忘れたらしい。傍に,オレオの袋が転がっている。
 ハルエ婆さんは,なぜかちゃぶ台の上で,スレイドの方に足を向けて横たわっていた。身体は上を向いているのに,顔は奥の仏壇に向けられ,夏見からは表情が見えなかったが,その不自然な姿勢のままピクリとも動かない。見回すと,答えはすぐに分かった。ちゃぶ台の下に血だまりが出来ていて,そのまま視線を上げると,婆さんの腹から突き出た包丁の柄の部分だけが見える。
 夏美はコンビニの袋を取り落とし,何とか自分を励ましてスレイドに呼びかけた。
「ウィル?」
 だが,その声は小さすぎてスレイドの耳に届かなかったようだ。彼は振り向きさえしない。夏美はこわばった手足を無理やり動かし,ぎこちない動きで靴を脱いだ。上がりまちに足をかけたが,膝に全く力が入らず,バタンと大きな音を立てて畳に両手をついてしまった。
 その音で呪縛が解けたようにこちらを向いたスレイドの顔は,能面のようで全く表情が読み取れない。彼は立ち上がろうとしてよろけ,膝立ちのまま夏美ににじり寄って来た。
 夏美はそんなスレイドの首に手を回し,二人はぴったりと身を寄せてその場に座り込んだ。
 窓から稲妻が一閃し,その眩しさに,夏美はこのまま目がくらんでしまえばいいと思った。程なくスレイドが大きな身体を震わせて嗚咽しはじめ,それが治まるまで,夏美は長い間彼の肩を抱き,目の前の畳の上のオレオの袋を見つめ続けた。

 夏美の通報で警官が駆けつける10分ほどの間に,彼女はスレイドの存在を示すオレオの袋とスレイド本人を,2階の夏美の部屋の押入れに押し込んだ。音を立てるなと命じておいて婆さんの部屋に戻り,やって来た警官に自分が第一発見者だと告げる。いけないことだとは思ったが,今は偽のパスポートしか持たないスレイドを,警官に引き合わせるわけには行かないのだ。
 警官と,遅れてやって来た刑事のいくつかの質問に答え,最後に犯人の心当たりを聞かれると,夏美はしばらく考え込み,結局首を左右に振った。数人の警官がアパートの他の住人たちの聞き込みに回る様子を,夏美はぼんやりと眺めた。

 一通りの捜査を終えて警官たちが引き上げる頃には,雨はすっかり上がってくれたが,時刻は夜の8時を回っていた。
 夏美もやっと開放され,疲れ切って部屋に戻る。キッチンの明かりをつけたところでスレイドを思い出し,押入れの扉を開くと,彼は膝を抱え,まだ震え続けていた。顔を覗いて見たが,涙は乾いているようだ。肩を抱くようにして押入れから引っ張り出すと,その手にはまだ,オレオの袋がしっかりと握られている。それを見て,夏美はなぜか急に空腹を覚え,そういえば今日は11時頃の軽いブランチの後,何も口にしていなかったことを思い出す。
 引っ張り出したスレイドを,とりあえず居間のテーブルに落ち着かせ,キッチンの食器棚からマグカップ2つと,冷蔵庫からはウーロン茶のペットボトルを取り出し,テーブルに運ぶ。夏美が今日コンビニで買った,スナック菓子の袋も一緒に持って来た。
 先ずはオレオの袋を開き,両方のマグカップにウーロン茶を注ぐと,片方をスレイドに差し出す。彼は,立てた両肘の間に頭を抱え込んだまま動こうとせず,夏美は本格的に心配になってきた。片手を伸ばして彼の腕に触れ,そっと呼びかける。
「ウィル? ねぇ,大丈夫?」
 全く反応がない。
「ウーロン茶飲みなよ。少し落ち着いた方がいいって。それとも,あったかいもの持って来ようか?」
 強く,首を振る。
「ねぇ,どうせ今夜は眠れないし,何か胃に入れておかないと良くないよ。」言いながら,夏美はオレオクッキーを1枚取り,両肘の間からスレイドの顔の前に突き出した。スレイドは乱暴にそれを払いのけ,
「やめてくれ! 腹は減ってない!」と叫ぶように言った。
 夏美は仕方なく,クッキーを自分でかじった。もぐもぐと口を動かしながら,早くも2枚目に手が伸びる。大好きだったハルエ婆さんが亡くなったってのに,どうして自分はお腹をすかせているんだろう? ぼうっとそんなことを考えながら,4枚目に手を伸ばす頃には,スレイドも立てていた両肘を戻し,ウーロン茶のマグカップを掴んでいた。
 一口すすり,キッチンに続く戸口に視線を彷徨わせながら呟く。
「戻らなくちゃ…。」
 驚いて,夏美は顔を上げた。
「戻るって,まさか…。」言いながら覗いたスレイドの瞳は,虚ろでどこにも焦点が合っていない。
「コクランの中へだよ。早くしなくちゃ。もう,ここにはいられない…。」
 夏美は突然,床が抜けて身体が沈み込んでいくような恐怖に襲われた。
「どうして? どうして今,戻らなくちゃならないの?」
「他にどうしようもないからさ! だって,何もかもが僕のせいなんだ。僕が来たから,奴は嫉妬に狂ってあんなこと…。おまけに僕は,第一発見者として名乗ることすら出来なかった!」
「…奴って…。ウィル,ひょっとして犯人を見たの?」再び両手に顔を埋めかけたスレイドだったが,夏美の問いかけに顔を上げ,視線を彷徨わせる。
「婆さんのところに行こうと部屋を出た時,廊下の手すり越しに何気なく下を見た。あの高山が,婆さんの部屋から飛び出して,通りを渡ろうとするところだった…。」
「嘘…。」茫然と,夏美はつぶやく。
「僕が部屋に飛び込んだ時,本当はハルエ婆さん,まだ息があったんだよ。救急車を呼ぼうとしたら止められて…。やっと俊夫さんに会えるんだから,って…。」
 スレイドの両眼から,乾いていたはずの涙が溢れ,呻き声のような嗚咽がもれた。
「僕が…来たから…」
 夏美も泣きながら立ち上がり,スレイドの後ろに回って,その背中を抱きしめた。小刻みに上下する肩に,ぴったりと顔を押し当てる。
「…行かないで。」
「私のために,ここにいてよ。ほんとは全部,私のせいなんだから。私があいつに中途半端だったから…。」
 夏美の腕の中で,スレイドが激しく首を振る。
「バカ言うな! 高山に徹底して冷たい態度取ったりしたら,殺されてたのは君だぞ! 僕がもっと,注意してさえいたら…。」
「お願い,今は戻らないで。このアパートで友達って言えるの,あなただけなんだもん。こんな時に,一人ぼっちになるなんて…。」
 どこからか,洗濯機の回るブーンという低いうなりが伝わって来た。


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