陽炎たちの春(第7話)
 夜が明ける頃には,夏美は犯人の心当たりについて,警察に出向いて話す決心がついていた。スレイドも,そんな夏美を部屋で待っていると約束してくれた。ホッとして,朝9時すぎに刑事の残した電話番号にかけてみると,なんと向こうも夏美と連絡を取りたがっていた。
「…検死も一通り済んだんだけど,お婆さんの遺体,引き取り手がないんですって。」
 夏美が刑事との電話を終え,スレイドの提案で気分転換にと出かけた,駅前のサンドイッチショップである。ツナサンドをかじりながら,先ず夏美が報告した。
「いとこの子,っていう人が鹿児島に見つかって,刑事さんが連絡したけど,会ったこともないからって,断られたんだって。遺産も受け取り拒否したらしいよ。」
「ひでえな。マジかよ?」スレイドはかなり元気を取り戻し,例によってBLTのフルサイズを3口で平らげる。
「でも,無理もないかも。お葬式出すのにもお金かかるし,その上鹿児島と東京の往復じゃ,交通費だけでもバカにならないもんね。」
「そか。カゴシマって,そんなに遠いのか。それで,どうすることにしたんだ?」
「私達で何とか出来ないかと思って。つまり,アパートの皆で。」
 夏美は,ほぼ丸一日ぶりで,スレイドの心からの笑顔を見た。
「グッド・アイディア! 僕も何か手伝うよ。それで,例の高山のことは?」
「うん。実は,アパートの人で,他にも高山のことを話した人がいるんだって。殺された当日に見たわけじゃないらしいけど,あいつ,しょっちゅうここのアパートの前ウロウロしてたから。昨夜の聞き込みで,すでにそういう話が出て,調べたらやっぱり,向かいの自分のアパートに昨日から戻ってないみたい。重要参考人としてマークしてるって言ってたわ。」
 スレイドは大げさに息を吐いた。
「よかった! 日本の警察は優秀で,検挙率が高いって,僕のセリフにもあったくらいだもんね。きっとすぐ解決するな。」
 そして,つと夏美から視線を逸らせた。
「安心して,戻れるかな。」
 夏美が目をむいて,スレイドを睨む。
「ちょっと! ゆうべあれほど頼んだのに…。」
 スレイドはそんな夏美の視線を受け止め,真っ直ぐに見つめ返す。
「今すぐって訳じゃないよ。ハルエ婆さんにちゃんとサヨナラを言って,高山が捕まって,君が安全になってからだ。」
「…こっちの世界に来てから,ずっと考えてたことだからね。このままズルズルここにいても,君に迷惑かけるだけだし,ウィル・スレイドとして独立したかったら,やっぱりコクランと決着うをつけなくちゃ。彼に会って,僕の存在を認めさせる。だから,近いうちにいったん,ビデオの中に戻るよ。」
 スレイドのコバルト色の瞳の奥に,何かの炎が燃えていた。彼はジム・コクランとは確かに違う人格だ。その瞳は,まだアルコールの霧に覆われてもいない。コクランもきっとそのことに気付くだろうと,夏美は思った。
「…不思議だね。実はさ,おばあちゃんと私,昨日あなたにそれを言うつもりだったの。コクランと決着をつけろ,って。」
 スレイドは大きく頷き,立ち上がると,BLTサンドをもう一つ,注文しに行った。


 二日後の,ハルエ婆さんの通夜と翌日の告別式は,アパートの住人だけでなく,町内会の人達からの協力も得て,かなり立派なものになった。
 夏美は,婆さんの部屋に掛かっていたご主人の俊夫さんを始め,クラーク・ゲーブルやウィリアム・ホールデン,ロバート・レッドフォード等,特にお気に入りだった男優の写真数点と,最後の思い出となった鎌倉での4人の写真も,棺に入れてもらった。
 遺産となるハルエ婆さんの土地や建物をどうするか,という問題が,通夜の席での話題の中心だったが,ばあさんが毎日のメモ代わりに使っていた大学ノートに,“もしもの時は,土地やアパートは世話になった町会の人達にいいように管理してもらいたい”旨の記述があることを夏美が示すと,それなら「町会への寄付」という形で管理できないか?という意見が出て,今後の集会でつっこんだ話し合いが持たれることに落ち着いた。
 葬儀の翌日,のこのこ自分のアパートに戻って来た高山祐司は,待ち構えていた警官に任意同行を求められ,観念したのかその場であっさりと犯行を自供した。

 とある日曜の午後,夏美はハルエ婆さんの部屋で,彼女の遺品を整理していた。テレビ台の下の棚には,夏美が一昨年の誕生日にプレゼントした,レオナルド・ディカプリオの写真集が立てかけてある。パラパラとめくりながら,「うけけ」と笑う婆さんの表情を思い出し,今にもキッチンから,玄米茶入りの茶托を持って現れるのでは,という感覚にとらわれた。
「これも,お棺に入れてあげたらよかったかなあ…。」
 独りごちて,作業を再開する。スレイドが手伝ってくれればと思ったが,彼は昨夜,夏美が眠っている間にビデオの中に戻ったらしく,今朝はどこにも姿が見えない。
 ふいに夏美は,心の中を突風が駆け抜けたように感じた。その風が,ハルエ婆さんやスレイドの姿を一瞬で吹き飛ばして,通り過ぎていったようだ。夏美はその風の冷たさに震え,思わず両腕を抱えこむ。
 窓からは本格的になった春の日が差し込み,明るく暖かな午後だった。


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