陽炎たちの春(第8話)
第 二 章

 ウイルソン・スレイドはニューヨークはアベニューAかどこかの,おんぼろアパートの一室に,茫然と立っていた。
 ニュージャージーの更生施設でないことは確かだが,ニューヨークだと分かったのは窓の外のビル郡のおかげだ。こちらでは昼間の時間帯だったことも幸いした。床の上に散乱する何かの食べかすやこぼれたビールなどを,思い切り踏みつけずに済んだからだ。
 部屋の中央に丸テーブルがあるが,その上は床よりももっとひどい惨状だ。新聞雑誌類は言うに及ばず,ケチャップソースのこびりついたバーガーショップの包み紙や,吸い殻があふれ返った灰皿,ポテトチップやチョコレートの空袋や食いかじり,飲みかけのビールが入ったまま倒れたアルミ缶までもが,オブジェのごとく乗っかっている。
 足の踏み場に困って,スレイドはモップかホウキの類を目で探したが,部屋の隅には汚れた衣類であふれ返ったソファーがあるだけで,掃除用具の類は見つかりそうもない。仕方なく,足をワイパーのように使って,床の上のゴミをよけながら,スレイドは部屋の奥の扉に向かう。そこはバスルームで,居間と比べればまともな状態ではあったが,目的のコクランの姿はそこにもない。仕方なくまた居間に戻り,続き部屋になっているキッチンを恐る恐る覗いてみた。
 そこは居間の惨状から予想されるよりはるかに整然としていたので,スレイドはホッと胸をなで下ろしたが,よく見れば流しといわず棚といわず,ホコリが堆く積もっていて,住人が冷蔵庫以外の場所には長い間手も触れていないのだと思い当たった。
 再び居間に舞い戻り,キッチンの横の扉を開くと,そこは寝室。床は汚れた衣類が散乱して、足の踏み場もない。ナイトテーブルの上は,飲みかけのアルコール類のビンが林立状態だ。ベッドの上にも人影はなく,スレイドは途方に暮れた。
 記憶に間違いがなければ,ニュージャージーにある更生施設のテレビから出現するはずだったのだ。“スレイド事務所”撮影終盤から,コクランは覚醒剤にも手を出しはじめ,施設に入ったら向こう3年は出て来られないと言われていた。まだ入所して2年にもならないはずだし,アパートのこの惨状から察するに,彼は脱走に成功したようだ。
 スレイドは暗澹たる気持ちで三たび居間に戻り,テーブル脇の一番まともそうなディレクターズチェアに腰を降ろした。
 コクランを説得しようにも,現状では自分の存在は覚醒剤の幻覚作用だと思われるのが関の山だ。かといって出直すにしても,彼が自ら治療を再開するとはとても思えないから,結局チャンスは今しかないということだ。
 スレイドの存在を認める前に,コクランに死なれでもしたら…。恐らく自分も,その瞬間に消滅してしまうだろう。考えるだに恐ろしい事態だが,今は彼が無事に戻ってくれることを祈ってここで待っているしかない。

 ありがたいことに,しばらく待つと入り口のドアがガチャリと鳴った。
 はっとして立ち上がったスレイドは,開いた扉の向こうの人影に目を凝らす。
 肩までかかるザンバラ髪に,手入れのされてない無精髭。痩せさらばえた身体に,ヨレヨレの薄汚いジャージの上下。真っ赤に血走った白目の中で,その瞳だけが異様な光を放っている。よく見ればジェイムズ・コクランに間違いなかったが,彼がほんの数年前まで颯爽とした二枚目スターだったとは,にわかには信じられない。
 そのコクランが口元を引きつらせ,何か言おうとしている。その様子から,長い間誰ともまともな会話をしていないのでは,と,スレイドは訝った。
 「ウィルソン・スレイドだな?」
 部屋に一歩踏み込むなり,コクランが言った。スレイドは思わず後ずさり,目をすがめてコクランを見つめる。
 「まさか…僕を知ってるのか?」
 「あたり前だろ。こちとらあんたが現れるのを待ってたんだからな。全く,あのメス豚の言った通りになったぜ。肥りかえったジプシー女のな。」
 後ろ手に扉を閉め,抱えていた紙袋をその扉に立てかけると,コクランは無造作に床のゴミを踏みつけながらスレイドに近付いて来た。
 「ジプシー女だって? いったい何のことだ?」
 「知らなかったのか? ふん,のん気なものだな。」
 そう言いながら,コクランはスレイドの脇をすり抜け,バスルームへと消える。
 ガサゴソと何かを掻き回すような音がして,再び居間に現れた時,コクランの手には拳銃が握られていた。
 「そっちも抜きな。俺と勝負しに来たんだろ?」肩を思い切りそびやかす。
 「待てよ,ジェイムズ。勝負じゃないだろ。話を聞いてもらいたいだけだ。」
 スレイドがまた一歩後ずさる。今度はさっきとは逆の方向だ。
 「フン,よく言うぜ! 俺を殺しに来たくせに。あの女が言うにはな,俺の場合,アカの他人を呪うのと違って特殊なケースだから,結果の予測がつかねーんだとさ。そんでも,呪いは呪いだからな。俺かお前か,どっちかが必ずここで死ぬことになる。いつか勝負の時が来るって言ってやがったからな。だから俺は脱走したのさ。施設にいたんじゃ,こんなもの隠しておけねーだろ?」
 ニヤリと口の端をひん曲げる。銃口は真っ直ぐスレイドに向けられていた。トリガーが起こされる。
 呪いは呪い。
 「何だって? あんた,俺に呪いなんかかけたのか?」
 コクランが大口を開け,ヒステリックな声で笑う。
 「本当に何も知らないらしいな。仕方ない,教えてやるか。あんたにかかってるのは,ジプシーの死の呪いだよ。結果は保証付きって奴だ。お前がここに現れたってことは,あの女占師としてはまっとうだったみたいだな。俺は幸運を掴んだわけだ。」
 「…自分に死の呪いをかけるなんて…。ジェイムズ,あんた何をやらかしたのか分かってるのか?」
 黒光りのする銃口を凝視するスレイドの顔色は,紙のように白い。全身から冷たい汗が噴き出し,Tシャツに染みが拡がる。激しい目眩で,今にも倒れそうだ。
 「うるせえ! てめえはただの幽霊野郎だ! さっさとあの世へ戻りな!」
 コクランの銃が火を吹くのと,目眩でよろけたスレイドが足元の衣類につまずいて倒れるのが,ほとんど同時だった。
 一瞬の静寂の後,仰向けに倒れていたスレイドが何事もなかったように身を起こすと,コクランは恐慌状態に陥った。その隙をついて飛び出したスレイドが銃を奪い取り,遠くに投げ飛ばす。
 そのままゴミだらけの床に組み伏せられ,動きを封じられたコクランは,子供のように泣きじゃくった。その身体から力が抜け,ジャージの下半身に漏らした小便に染みが拡がってゆく。スレイドは言いようのない悲しみと無力感にとらわれ,手をかしてコクランを立たせると,銃が部屋の隅まで飛んでいるのを目で確かめて,彼とともにバスルームに入った。
 服を脱がせて全身を洗ってやる間,コクランはべそをかき続けたが,比較的清潔そうなバスローブを着せ,山積みの衣類をはたき落としたソファーに座らせると,ようやく落ち着きを取り戻した。スレイドは次に,部屋の隅に転がっている銃を拾い,コクランの様子を確認しながらキッチンに消えると,シンクの上の吊り棚の奥にホコリをかぶったクラッカーの箱を見つけ,銃をその中に隠した。ついでに思いついて冷蔵庫を覗き,ダイエットコークを2缶,両手に持って居間に戻る。
 コクランは大人しくソファーに座って,スレイドを待っていた。テレビのリモコンをもてあそんでいたので,代わりにコークの缶を持たせる。スレイドが隣に座ると,二人は同時に缶のプルリングを上げ,一口飲んだ。
 しばらくぼうっと前を向いて座っていたコクランだが,自分を見つめるスレイドの視線に気付くと,彼を見つめ返した。だが,暗い瞳にたたえられた悲しみの深さにコクランはたじろぎ,すぐに視線をそらせてしまった。
 「…あんた,本当は何者なんだ? どこから来て,この部屋にどうやって入った? ここは3階だし,あんたは鍵も持ってない。」
 スレイドは,一瞬テレビの上に乗っているビデオ・デッキに視線を走らせたが,それは根本的な答えではないと思い直した。そして改めて,コクランに向き直り,その心臓のあたりを指差して,質問の答えを示した。
 コクランは怪訝そうにスレイドの指先を見つめ,首を横に振る。
 「わかんねえよ。俺の心臓がどうかしたのか? どっから入ったのかって,俺は聞いたんだぜ。」
 スレイドが微笑した。
 「あなたは僕だ。いや,正確には,あなたがなりたかった自分は,かな。ウィル・スレイドはいつだって,あなたの心の中にいるんだ。だから,鍵なんて必要ないのさ。」
 コクランは一瞬,キツネにつままれたような表情を見せたが,すぐ我に返り,スレイドを鋭く見返した。 「そりゃ嘘だ! あんたと俺が,同じ一人の人間だってのか? いいや,騙されんぞ。あんたは例の女の写真を送り返しちまったり,俺の楽しみの邪魔ばかりしてたじゃねーか。甘い顔して,いつかは俺になりかわろうってんだろ!」
 スレイドは頭を強く左右に振り,濁りきったコクランの瞳を凝視した。
 「そうじゃない! 僕はあなただ! あなたが演じた人格なんだ! あなたが持ってるものの一部ってことだろ? 僕は邪魔なんかしたことはない。本当はあなたが,そうしたいと望んだことなんだ!」
 一時はうまく行きそうに思えた事態は,結局振りだしに戻ってしまった。コクランも血走った目を見開いて,ヒステリックに怒鳴り返してくる。
 「嘘つきめ! こっちが忘れたとでも思ってるんだろうが,あいにくまだボケちゃいねえぜ! おふくろの腹の中じゃ,俺たちは一卵性の双子だった。ところが生きて生まれたのは俺ひとり。よくあるただのアクシデントだったのに,お前は俺を恨んで,幽霊になって実体化しやがった! 俺の気が狂ったことにして乗っ取ろうったって,そうは問屋がおろすもんか!」
 コクランは思いがけずに素早い動作で立ち上がり,両手をスレイドの喉にかけて,渾身の力で締め上げはじめた。スレイドは,コクランの語った真相に気を取られ,身構えることも出来なかった。
 「…待って…聞いてくれ…僕は,幽霊なんかじゃ…。」
 何とかまともに話そうとするが,かすれて声にならない。その視界を闇が覆いはじめ,スレイドは持てる力を振り絞って,唇を動かした。
 「…統合してくれ,僕を…。ジム…」
 闇の中に霞んでゆく景色の中で,スレイドはコクランが驚きに目を見張っているのを見たように思った。
 苦痛の奥に悲しみをたたえたコバルトの瞳から,涙がこぼれてソファーを濡らす。
 「帰りたいだけなんだ…家に…」
 だが,すぐに視界が閉ざされ,スレイドはずるずると床に滑り落ちて,そのまま動かなくなった。
 「…家…?」
 コクランはソファーに両手をついたまま,スレイドの最後の言葉を繰り返した。鼻の曲がるような異臭とともに,ソファーに彼の小便が溢れ,ぽたぽたと床に滴った。


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