陽炎たちの春(第9話)
 スレイドが去って3日間、夏見は律儀にアルバイトに通った。だが、仕事が全く手につかず、4日目の朝、ついに限界だと悟る。一応出勤はしたものの、頭が痛いと嘘をついて午前中で早退し、その日のうちにバイトをやめてしまった。
 部屋に戻った頃には雨が降りだしていて、夏美は部屋中のカーテンを引き、明かりもつけずに「スレイド事務所」第1話のビデオを再生しはじめた。このエピソードは、夏美にとって落ち込んだ時の特効薬だ。初めてスレイドに出会った時のときめきをいつでも追体験出来るからだ。
 軽やかなデキシーランド・ジャズのテーマ曲が流れ、真昼のマンハッタン島の空撮から、ひと際モダンなビルの窓にカメラが寄っていく。窓辺にはダークスーツでキメたスレイドが立っていて、カメラに気付くと眉を上げて微笑む。小粋なオープニングの後には、秘書のミセス・トゥールズがスレイドのためのブラック・コーヒーをトレイに乗せて、オフィスへと運んで来るところから物語が始まる。デスクで所在なげに書類をひっくり返していたスレイドは、コーヒーを受け取ると、飲む前に大あくびをかます。ミセス・トゥールズに、「今日は雨も降ってるし、暇だから店じまいにしようか。」などと声をかけるが、直後に電話が鳴り出して、結局それが記録的に忙しい1日の幕開けだった、という、コメディー色の強いストーリー。猫が家出して戻らないとか、小学生の息子が親子ゲンカの果てに自室で篭城しているとか、一つ一つは大した事態ではないのだが、3つ4つと一度に重なるととんでもないことになってしまう。その上、こういう時に限って依頼人が地元警察の仲良しの警部補だったり、上得意の成金マダムだったりするので断るに断れない。次第にパニクって人格が崩壊してゆくスレイドと、何があっても規則を曲げない頑固者のミセス・トゥールズ、とぼけた助手のカイテル君など、登場人物も第1話からしっかりと性格が描き分けられ、笑いながら見るうちに最後はホロリとさせられるという、コメディ・ドラマとしては出色の出来栄えに仕上がっている。もちろん、「スレイド事務所」は基本的にはシリアスな探偵ドラマだが、1話目のこのホワホワとした雰囲気は、その後のシリーズ全体に一貫して流れることとなる。
 ビデオが終ると、夏美はしゃくり上げながらリモコンをつかみ、巻き戻しボタンを押す。テープカウンターがゼロになって止まると、再び再生ボタンを押した。

 初めて「スレイド事務所」を見たのは8年前、夏美は米国ハイスクールの12年生だった。周囲の仲のよかった友人たちがお化粧を始め、ボーイフレンドを作って婚約したり、妊娠したり中絶したりしてそれぞれの現実に直面していく中、なぜか夏美だけはそういう気分になれなくて、いつもTVドラマの中の誰かに夢中だった。ウィル・スレイドに出会う前は「STNG」のライカー副長だったし、その前はたぶん、「特捜刑事マイアミ・バイス」のドン・ジョンソンか、「ファミリー・タイズ」のM・J・フォックスあたりだったろう。両親は、自分の娘がモテないのは白人ではないからだと諦めていたようだが、実は夏美は男の子の間でそこそこの人気者で、何人かのそれほど悪くないクラスメイトから交際を申し込まれたこともある。ところが、周囲の同性の友人たちが彼氏が出来たとたんに付き合いが悪くなり、それまでの嗜好や興味の対象まで彼氏中心にガラリと変えてゆくのを見ているだけに、夏美にはどうしても最初の一歩を踏み出すことが出来なかった。
 まっとうな恋愛や結婚生活といったことが、自分には不可能なのかも知れないと、何となく気付きはじめたのも、この頃のことだ。
 目の前に直面しなければならない現実があると知りながら、タヌキ寝入りの心地よさに甘んじていたのがこれまでの夏美だったのだ。だが、ここに来て彼女の世界は瓦解し始めている。タヌキ寝入りの夢でしかなかったはずのスレイドが、生身の男性として現れたのだ。ただ、これまでは中途半端な存在であるスレイドが夏美を頼ることで、2人の関係が成立していたのだが、これから先は?
 もしも万事がうまく運んで、スレイドがまっとうなアメリカ市民として夏美の前に立った時、それでも自分は、彼とポジティヴな関係を続けて行けるのだろうか? 正直なところ、夏美には全く自信が持てなかった。
 「重要なのは」
 ブラウン管の向こうでは、温厚な人格の崩れ始めたスレイドが、ヒステリックにわめいている。
 「だから、重要なのは人間であって、規則じゃないんです、ミセス・トゥールズ!
 人のために規則があるのであって、規則のために人があるわけじゃないって、イエス・キリストも言ってるでしょうが!」
 「あらまあスレイドさん。私に向かって、聖書の講義をなさるおつもり?」
 スレイドは頭をかきむしり、そばに突っ立っているだけの助手に攻撃の矛先を変える。
 「カイテル! 君がいつまでも寝ぼけてるから、こういうことになるんだ! いいかげん、目を覚ましたらどーなんだ!」
 突然訳もなくボスに怒鳴られたカイテル君は、目をぱちくりさせ、夏美も一瞬ギクリとして、思わずビデオを一旦停止にしてしまった。
 テーブルの上のミッキーマウスの時計は夕方の5時を指しているが、カーテンを細目に開けると、まだ降り続く雨のせいで周囲は夜のように暗い。早めに夕食を済ませようと、夏美は立ち上がった。


 その夜、夏美は奇妙な夢を見て、明け方に目を覚ました。
 それはまるで、テレビの旅行番組でも見ているような映像で、ニューヨークはマンハッタン島のストリート風景が映し出されている。夏美が両親と住んでいたのはクィーンズ地区だが、マンハッタンへは友だちとしょっ中出かけたので、見れば場所の見当はつく。あれは地下鉄のサウスフェリー駅。そこからブロードウエィを北上し、東十四番通りにぶつかって右折する。そこはイーストヴィレッジのアルファベット・アベニューと呼ばれるあたりで、近年は洒落たレストランやバーなどが店を開き、ひところよりかなりマシになって来たとはいえ、治安はお世辞にも良いとは言えず、「不案内な観光客は近付かないのが無難」などとガイドブックに書かれてしまう。夢の映像はアベニューBで細い路地に入ると動きが止まり、年季の入った、ドアマンもいないとあるアパートの建物に入って行く。そしてエントランスのメールボックスの、505という数字が大写しになって、唐突に終わった。
 自分でも理由は分からないが、この夢がスレイドからのSOSだと直感した夏美は、飛び起きてパジャマにロングコートを羽織っただけの格好で近所のコンビニに走った。海外旅行情報誌を買って部屋に戻ると、ニューヨークに昼頃到着出来る飛行機の便をいくつかメモし、24時間営業のチケットサービスに電話をかける。平日だったのが幸いして第一希望の便の予約が取れ、夏美は手早く身支度を済ませ、猛然と荷造りを開始した。午後1時までに、空港に行かなくちゃ!

 NW18便は30分遅れで飛び立ち、ほぼ定刻通りにJFK空港に到着した。
 夏美は機内ではずっと、著名な心理学者が一般向けに書いた多重人格者に関する本を読んでいた。特にその本を選んで持ち出した訳ではなく、嵐のような荷造りの最中、どうせ機内では眠れないだろうと踏んで手近にあった本を突っ込んだだけだったのだが、読み進むうち、夏美は何か偶然では説明のつかない、奇妙な既視感にとらわれるようになった。
 特に目についたのが「統合」という単語だ。もし、ブラウン管から飛び出したはずのウィル・スレイドが、コクランの第二の人格に過ぎないのだとしたら? 最も理に適った解決法は、コクランがスレイドを「統合」することしかあり得ないということになるが、そうなったらスレイドは、生身のスレイドは消滅するしかないのではないか?
 「いいかげん、目を覚ましたらどうなんだ!」
 夏美は、スレイドの怒鳴り声を聞いたように思った。いや、本当はそうじゃない。演じていたのはジェイムズ・コクランではなかったか。


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