陽炎たちの春(第10話)
 ケネディ空港の売店で、夏美はミネラルウォーターとマンハッタン・ウォーキングマップを買い、エアポート・シャトルで予約してあったホテルに向かう。チェックインの後、部屋では着替えをしただけで、すぐ外に出てタクシーをつかまえた。日本ではもう真夜中のはずだが、こちらではまだ午後1時をまわったところで、夏美は目的のアパートを簡単に探し当てることが出来た。
 一回のエレベーターホールで、夢に出てきたメールボックスと同じ14階1405室の部屋があることを確認すると、そのブザーを夏美はしつこく押し続ける。5分近くも時間が経って諦めかけたころ、ようやくドアを開けた合図が返ってきて上がっていくと、お目当ての部屋の扉がゆっくりと開くところだった。
 出てきた人物がジェイムズ・コクランだと分かるまで、夏美はしばらくその男をまともに見つめてしまった。そして、スレイドの感じた悲しみを思った。
 「中国人が、何の用だい?」
 男が言った。夏美は時間を無駄にしなかった。
 「中国人じゃありません。日本から来ました。川本夏美といいます。何日か前、ここにウィル・スレイドが来ませんでしたか?」
 どんよりと濁った男の瞳が、一瞬ちらりと瞬いた。
 「来たような気がするが、もういないぜ。あんた、あのジプシー女の使いか何かか?」
 「いいえ、ジプシーじゃありません。信じられないかも知れないけど、私、ウィル・スレイドの友達で、彼を探してるんです。」
 「…てことは、あんたは別に残りの金を取り立てに来たわけじゃなさそうだな。」
 そう言いながら、コクランは夏美の姿を舐めるように眺めまわし、ぶっきらぼうに手を振って、中に招き入れた。
 部屋に一歩入ったとたん、異臭が鼻をついて夏美は頭がクラクラした。男の穿いている灰色のトレーニングパンツの、黄色っぽいしみにも気がついていたが、似たようなものがソファーの上にもかなり広範にわたって広がっている。この部屋は居間らしいが、テーブルの上と言わず床と言わず、何か食べ物の食いかじりや空き袋、衣類に古雑誌といったものが散乱して、安心して座れそうな椅子も見当たらない。長旅と時差ボケで疲れ切っていた夏美は、絶望的な気分になった。だが、気配を察したらしいコクランが甲斐甲斐しく動き、古雑誌の山の下から比較的まともそうな折畳みのディレクターズ・チェアを引っぱり出してくれた。それを、オブジェの塊のようになってしまったテーブルのこちら側に置き、夏美に掛けろと合図すると、自分は向こう側の、ソファーのしみの上にどすんと腰を落とす。
 「…で? ウィル・スレイドがどうしたって?」
 夏美は持っていたバッグからミネラルウォーターのボトルを取り出し、一気に半分ほども飲み干してから口を開いた。
 「その、変な話なんですけど、彼、最近東京の私の住んでるアパートに越して来たんです。私、アメリカに居たことがあってあなたの番組の大ファンだったので、大喜びで友達になりました。でも、4、5日前にあなたに会うって出て行ったきり戻って来なくて。ここに来れば会えると思ったけど…。もし、彼の行き先をご存知なら、教えて頂けないでしょうか?」 “出て行った”という表現が、正確なものでないことは分かっていたが、そこまで説明していたらキリがない。だが、コクランはこの奇妙な話に驚いた様子もなく、肩をすくめてあっさり「さあね。」と答える。
 「奴がここに居たのは確かだと思うが、ほんとの話、この部屋に入るところも出て行ったところも、俺は見ちゃいないんでね。だから薬の幻覚作用かも知れんと思い始めたところだった。あんたのおかげで、そうじゃなかったと確信が持てる。来てくれて感謝するよ。」
 …ということは。コクランは行く先までは知らないのだ。
 「あの、それじゃ、もしよかったら、彼とここで何があったのか、話してもらえませんか?」
 コクランはニヤリと笑って身を乗り出す。
 「ここであいつと何があったかって? 生存権を懸けて勝負したのさ。奴が甘い顔したんでいっとき騙されてな。すんでのところだったが、結局おれが隙を見て掌を返し、あいつを殺すことが出来た。」
 夏美は、木刀で胃を強打されたような衝撃を受け、一瞬息がつげなくなった。コクランはそんな夏美の反応などお構いなく、座っているソファーをポンポン叩いて、得意気に先を続ける。
 「まさにここさ。このソファーの上で、俺はあいつの首を絞めた。あいつはそれでも、しばらく統合だとか何とか、ワケのわからんこと言ってたっけ。だけどこっちだってマジだからな。絶対に手を緩めたりはしなかったさ。そしたらそのうち動かなくなって、そこの床に伸びちまったよ。
 勝ったと思ったね。俺はとうとう、幽霊をやっつけたんだ!」
 コクランは、座ったまま腕を振り上げ、胸をそびやかして見せたが、夏美の目はその姿を見てはいなかった。
 統合。この言葉を、ウィルはどこで知ったのだろう?
 「…それだけ?」
 「なんだ?」
 「それだけなんですか? 彼があなたに言ったこと…。」
 「俺が覚えてるのは、奴が最後に言ったもう1つだけだ。『家に帰りたいだけだ…』ってね。」
 コクランは、苦しそうに喘ぐスレイドの声まで再現してくれたが、夏美は感謝するどころではない。スレイドの深い絶望が、胸にしみこんでいった。
 『…俺は生きてるのか?…』
 「…だから、俺が奴の望みを叶えてやったのさ。」
 コクランが続ける。
 「あんたの知らないことだがな、俺たちほんとは一卵性の双子だったんだ。出産の時の事故で、かわいそうに弟のトーマスは死産だった。母親は俺には伏せておくつもりだったらしいが、あるとき親父が酔った勢いで口を滑らせてな。その時の俺は、ビンボーな家だったからよけいな兄弟が生まれなくてよかったと思ったくらいだったが、今から思えばその頃からだ、何か俺が俺でないような、妙な感覚に襲われることが多くなったのは。おそらくトーマスがあの頃から、俺を乗っ取ろうとたくらんでたからに違いない。俺がスレイドを演じ始めたらすぐに、スレイドの時の俺をトーマスが支配するようになった。スレイドを演じるトーマスの株は上がるばかりで、放っといたら早晩完全に乗っ取られることになるだろう。だからって自殺するわけにもいかねえし、正直途方に暮れてた俺を、ある日ジプシーの女が救ってくれた。
 23話だったかな、スレイドがジプシー女に惚れられる話があっただろう。あんたが覚えてるか知らんが。その女が死の呪いについて話す場面で、俺はこれだ!と思ったよ。
 俺はトーマスに、ジプシーの死の呪いって奴をかけてみた。奴が乗り移った、ウィル・スレイドにな。そして見事、成就されたってワケなんだ。
 全くあんたは、ベストのタイミングで訪ねてくれたよ。何しろ今じゃ、ほとんどの時間薬でラリってるからな。ここに伸びてたはずの奴の死体も、いつの間にか消えちまったし、今話したこともみんな幻覚だったのかも知れないなんて、疑ってみたくもなる。しかし、あんたのとこにもスレイドが現れたとなりゃ、こりゃ絶対に本物だ。俺は幽霊をやっつけた英雄ってわけよ。」
 一人で一気にまくし立てると、彼は突然立ち上がり、「祝杯だ!」と叫んでテーブルの上の飲みかけのウィスキーを、瓶ごとラッパ飲みしはじめた。
 彼の言うことが本当なら、おそらくコクランがスレイドを統合したのだろう。しびれるような淋しさとともに、夏美はその事実を受け入れなければならないと思った。だが、必死に涙をこらえている夏美の様子に、コクランは全く気付いていない。
 「そうだ、もう1つ思い出したぞ!」
 突然、彼は空になった瓶を後ろに放り投げる。壁にぶつかってガシャンと大きな音を立て、瓶は粉々に砕け散った。
 「君はほんとに運がいい! 今日は記念すべき日なんだぜ。キッチンで、やっと探し物が見つかったんだ!」
 そう言って奇声を発すると、コクランは居間を飛び出していってしまった。おそらくキッチンに探し物とやらを取りに行ったのだろう。夏美は立ち去る潮時だと悟って、立ち上がった。
 ジェイムズ・コクランがスレイドを再び演じられるまでに回復出来る見込みは、ほとんどゼロに等しいだろう。だが彼が生きていてくれる限り、ウィル・スレイドもその人格の一部として共に在り続けることになるのだ。夏美は無理やり自分にそう言い聞かせ、唇を噛みしめて戸口に急いだ。その時…。


 この世のものとも思えぬ、英雄コクランの雄たけびと共に、一発の銃声が轟いて部屋中を震わせた。


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