陽炎たちの春(第11話)
 夏美は飛び上がり、次の瞬間はじかれたように居間を飛び出し、開かれたキッチンの扉の向こうに火薬と血の臭いを嗅ぎ取った。
 近付いてみると、キッチンは一見全くまともに見える。奥のシンクにコクランが顔を突っ込み、顔でも洗っているのだと言えなくもない。だが、よく見れば彼の身体は微動だにせず、シンクの中は飛び散った血と脳漿でどろどろだ。
 何が起こったのか悟った夏美は本能的に踵を返し、早足で唯一の出口である居間の扉に戻る。首だけ外に出してそっと様子をうかがい、人影のないことを確認すると音を立てないように扉をすり抜けた。3,4階分までは階段を使い、途中から通路を歩いてエレベーターに乗る。誰にも見咎められずに建物の外に出ると、メインストリートまではぶらぶら歩き、大通りからはタクシーを拾ってホテルに戻った。
 結局、ニューヨークには一泊しただけで、翌日の午後には、夏美は成田行きのJAL005便の乗客になっていた。
 警察に通報もせず、逃げ出したことに罪悪感があったが、そうしてしまえば数日間は拘束される羽目になっただろうし、自殺であることが明白な状況とはいえ、見ず知らずの日本人がどうして彼のアパートに入り込んだのか、犯罪慣れしたニューヨークの警察官を納得させる言い訳を、あの場で考え出すことは不可能だった。自分は罪を犯したわけじゃない、他にどうしようもなかったのだと、13時間の長いフライトの間、夏美は自分に言い聞かせ続けた。
 日本の上空で機体が高度を下げはじめると、ウトウトしかけていた夏美は目を覚まし、窓に顔を押し当てて、夕陽に照らされた箱庭のような下界を眺めた。「スレイド事務所」第3シーズン最終回のスレイドのセリフが、ふと頭をよぎる。
 人生なんて、B級のSF映画みたいなもの。
 夏美はなんて的を射た言葉だろうと改めて思う。自分の場合、本物のウィル・スレイドを登場させたまではよかったが、撮影が始まったとたん予算が底をついてしまったのだ。今さら役者を変えたところで、もうどうにもならない。あふれた涙で、眼下の箱庭がぼうっと歪んだ。


 キャリアーつきのスーツケースを引っぱって、へろへろ状態でアパートに帰りついた夏美は、誰もいないはずの隣の部屋から、なぜか明かりが漏れていることなど、まるで気付かずに部屋に入った。夜の10時をまわっていたので真っ暗だったが、ビデオデッキの主電源を示す赤いランプが、煌々と灯って夏美を出迎えた。そういえば、テープの再生は止めたが、その後取り出した覚えがない。そのまま電源も切らずに飛び出してしまったようだ。夏美は深々とため息をつき、荷物は玄関に置いたまま、中に入って部屋の明かりをつけた。その時、ドアの外からチリチリという小さな鈴の音が聞こえた気がして、夏美が振り返るのと、ほとんど同時に扉が開いた。
 「ワオ、夏美! ウエルカム・ホーム!」
 扉の向こうで微笑んでいるのは、どこからどう見ても約一週間ぶりのウィルソン・スレイドだ。海苔せんべいの大袋を小脇に抱え、人差し指にキーホルダーの輪っかが通されている。チリチリと鳴る鈴の音の正体は、鎌倉みやげの木彫りのお婆さんだった。
 「やった! 撮影再開!」
 「は?」
 どうやら辣腕プロデューサーが、理想の投資家を見つけたらしい。スレイドの指先で揺れる丸顔のお婆さんを見つめながら、夏美の瞳が再び涙でいっぱいになった。そんな彼女をスレイドはいっとき抱きしめ、その腕にせんべいの袋を押し付けると、許しも請わずにズカズカと上がりこんでキッチンに向かう。夏美が後を追うと、スレイドは勝手に冷蔵庫を開け、ウーロン茶のボトルを取り出したところだ。ようやく事態が飲み込めた夏美も、食器棚からマグカップを2つ取り出し、せんべいの袋と共に居間のテーブルに置いた。2人は向かい合って座り、スレイドがうやうやしくウーロン茶を注ぐ間、夏美はせんべいの袋を開き、テーブルの中央に引っぱった。その袋のそばに、スレイドがお婆さんのキーホルダーを立たせたので、夏美も思いついて、カラーボックスの上から写真立てを取って来た。若宮大路の満開の桜の下で、ハルエ婆さんと3人で写っているものだ。その写真を、キーホルダーの隣にスレイドも見える角度で立てかけると、2人はマグカップを持ち上げて乾杯した。
 一口飲むと、夏美は早くも海苔せんべいに手を伸ばし、一気に2枚を平らげてから言った。
 「ほんとに、驚いたのなんのって。コクランが、あなたを殺したって言ってたから…。」
 スレイドが微笑んだ。だが、コクランという名を耳にすると、その瞳に暗い影がさす。
 「死ぬかと思うほど苦しかったのは確かだけどね。どうやら2,3分は意識を失ってたみたいだし。その間にあいつは、寝室かどこかへ消えてしまった。たぶん拳銃を探してたんだろうな。僕は目を覚ましてしばらく、眩暈がするんで座り込んでた。そしてその時やっと、僕は覚悟を決めたんだ。こんな奴にしがみつかずに、自分のために生きよう、ってね。それで、クローゼットにあったあいつの上着から、これを頂いて来たよ。」
 スレイドはジーンズの尻ポケットから、ジェイムズ・コクランと書かれたグリーンカードとパスポートを取り出した。夏美はしばらく無言で眺め、
 「それってドロボーなんじゃ…」と言いかける。
 「だけど!」叫ぶように、スレイドが反論した。
 「だけど僕は、コクランでもあるんだ! ついこの間まで、同一人物として生きてきたんだから、泥棒には当たらないはずさ! 自分のものを、取り返しただけなんだよ!」
 「…ちょっと待って。」
 夏美はいっとき天井を見つめ、スレイドに視線を戻して尋ねる。
 「それじゃあなたは、自分の中にコクランを統合出来た、ってこと?」
 スレイドはぐっと唇を噛みしめ、
 「…わからない。」と、暗く、絞り出すような声で言う。
 「ただ、あの時は他に、選択の余地なんてなかった。僕がこの世界で生きていくためには、こうするしかなかったんだよ。」
 まるで自分に言い聞かせているような喋り方だと、夏美は思った。そして、コクランのものだったグリーンカードを見つめるスレイドの瞳の奥に、夜の海よりも暗い悲しみの影を見つけた時、夏美はようやく一つの確信を得た。
 「OK、わかった。納得するよ。あなたは自分のやるべき事を、やっただけだと思う。」
 夏美の言葉でようやく顔を上げたスレイドの表情は、ビデオの中の理想化された名探偵とは、明らかに異なっている。
 「ありがとう。君には本当に感謝してるよ。僕のSOSに応えて、ニューヨークにまで駆け付けてくれて。実は僕、君がショックでここへ戻って来られないんじゃないかって、ずっと心配してた。」
 「あそこであったこと、あなたはどの程度まで分かってるの?」
 「…あいつが、自分の頭を撃ち抜いたことは知ってる。僕の頭の中まで、轟音が轟いたからね。それに、君がまだそこにいて、つらい思いをした、ってことも…。」
 「あたしが逃げちゃったことは?」
 スレイドはふっと笑い、
 「君は君の、やるべき事をやったのさ。」と答えた。
 しばらく2人は、黙々とせんべいを食べ続け、3杯目のウーロン茶をお互いのカップに注いだところで、夏美が再び口を開いた。
 「それで、これからどうするの?」
 スレイドはテーブルの上のグリーンカードとパスポートを尻ポケットに収め、
 「ジム・コクランとして、生きて行こうと思う。」と答える。夏美が驚いて、
 「でも、彼の自殺がニュースになるんじゃないかなあ。」と、不安げに尋ねると、
 「それがさ。彼、施設を脱走してるだろ。案の定、偽名でアパート借りてたんだ。身分を証明する確かなものは、この通り僕が頂いて来ちゃったし、遺体はジム・コクランにしては痩せ過ぎてる。第一、顔が原形を留めていないだろ?
 だから騒がれることもないし、身元不明で処理される可能性が高いと思うんだ。」
 夏美の瞳から、疲れが吹き飛んだように見える。
 「そっか。だとしたら、私は間違ったことはしなかったんだね。だって、あの時警察に知らせてたら、きっと私、この人ジム・コクランです、って正直に言うしかないもん。本能で逃げ出して、やっぱり正解だったんだ。」
 スレイドも大きくうなずき、
 「本能か。人間って、不思議なものを持ってるんだよな。」と、しみじみ言った。
 「何言ってんの。あなただって、とっくに立派な人間になったんじゃない?」


 その後の数日間、2人は思い出作りのためにあちこちへ出かけて過ごした。
 ゆりかもめに乗ってお台場に繰り出したり、横浜の中華街を、肉マンをほおばりながら歩いたりした。巨大水族館のラッコが貝を割る音に、スレイドはびっくりして子供のような奇声を上げた。そして最後に、再び鎌倉を歩いた。
 若宮大路の桜はとっくに散っていたが、スレイドは枝にハルエ婆さんの、小さな鈴の付いたキーホルダーをつるした。木彫りの婆さんは風にゆられ、楽しそうにチリチリと鳴っている。
 その音を聞きながら、2人はどちらからともなく頬を寄せ合い、初めての口付けを交わした。
 「出来るだけ早く、ジム・コクランとして君を迎えに来るよ。」
 最後にそう言い残し、ある晩、夏美が眠っている間に、ウィル・スレイドはブラウン管の向こうに消えた。



 スレイドが消えて2週間ほど経ったある日の午後、アルバイトの面接帰りに立ち寄ったブックファーストの洋書売り場で、夏美は偶然、スレイドと再会した。何気なく手に取ったアメリカの芸能ゴシップ誌の三面記事の中に、ミセス・トゥールズと並んだ探偵スレイドの古い小さな写真を見つけたのだ。写真の近くに彼に関する短い記事もあり、ニュージャージーの更生施設を1年半ほど前に脱走していたジム・コクランが、餓死寸前の状態で舞い戻ったことを伝える内容だった。
 「これで治療は再開されることになったが、彼に再起のチャンスはあるのだろうか?」と、記事は結ばれていた。
 その夜、面接を受けた会社からアパートに電話が入り、夏美は翌週から、その小さなデザイン会社で、アシスタントデザイナーとして働くことになったのだった。



 2年後の春、4月。
 「スレイド事務所」の第4シーズンが、全米で一斉に放映を開始した。
 その前年に、夏美はようやく衛星アンテナ付きのワンルーム・マンションに引越しを済ませていたので、リアルタイムで感激を味わうことが出来た。ミセス・トゥールズもカイテル君も、レイプ犯のジミー・シールズさえもが、ファンと共に4年半近くも、主人公ウィル・スレイドの帰りを待ちわびていたのだ。全員が生き生きと、ノリにノって演じていた。犯人のシールズ青年は4年半経って逮捕され、警察署から戻ったスレイドを、ミセストゥールズとカイテル君が「ウェルカム・ホーム!」と迎えたところで、第1話は幕となった。夏美もテレビの前で彼らと声を合わせ、「お帰りなさい」とつぶやいていた。


 再開された「スレイド事務所」は、回を追うごとに評価を高めていった。前シーズン後半では、いかにも造り物臭かったホワホワとした雰囲気が、新シーズンではナチュラルに甦って各エピソードを包み込んでいる。誰もがそこに本物の暖かさを感じて慰められ、番組は最終的に、その年のエミー賞の候補にまでなった。
 ことにウィル・スレイドを演じるジム・コクランの努力と人間的成長は、あらゆる批評家からの絶賛を勝ち取った。CNNエンターテイメント・ニュースのインタビューで、アルコール・ドラッグ双方の依存症を克服したことを讃えられたコクランは、ほほ笑みながら、謙虚にこう答えている。
 「人間である限り、誰でも、あらゆる可能性を秘めているものです。」
 遠く離れた日本で、衛星電波を通じてこの映像に接した夏美は、スレイドが自分を迎えに来る日が、もはや二度と訪れないことを悟った。


≪前ページ   ≪目次へ戻≫   次ページ≫

(C)森 羅 2007- All rights reserved