マリウスの宝石(第7話)
 アレンは本物の暗闇がどんなものか,これまで一度も体験する機会がなかったのだという事実を,思い知らされていた。
 太陽神(ナノ)信仰があるということで,何となく予想はしていたが,夜のネルヴァには街灯というものがほとんど存在しない。キリアンの話では,ナノのお隠れになっている真夜中に出歩くような輩は,とんだ不信仰者ということらしいが,要は体のいい夜間外出禁止令じゃないか。
 もちろんこのルールも,表向きは観光客に押しつけられるようなことはなく,ホテルの集まる数キロの区域には数件のバーのネオンが,深夜にもかかわらず誘魚灯のように目立っている。
 だが,夜間にその区域の外へ出ることは,たとえ観光客でも許されないのだろう。ネオンの明かりが途絶えたとたん暗闇がまとわりつき,完全に方向感覚をなくしたアレンは一歩も前進出来なくなってしまった。
 本物の暗闇に投げ込まれると,人は前後左右だけでなく,上下の感覚も失う羽目に陥るものだと,とことん実感させられる。十分な知識も持たず船外作業に出ていた,大昔のアストロノーツになった気分だ。だがアレンは慌てず騒がず,上着の胸ポケットからゴーグル型のサングラスを探り出す。ベルトのリモコンスイッチで暗視モードに切り替えてからそれを掛けると,何とか周囲の様子が見て取れるようになった。背負っているデイバックから折りたたみ式の短いボードも引っ張り出し,前方のハンドルをのばして飛び乗る。ハンドルを握りしめ,ボード後ろの突起部を蹴り飛ばすと,ターボエンジンが目覚めてボードがふわりと浮き上がった。
 これだけ暗けりゃ,幽霊か吸血鬼以外の人種に見咎められる心配はしなくていいってことだよな,とアレンは独りごち,ハンドルを前に倒して前進をはじめる。
 数年前からアレンの七つ道具に加わったこのゴーグルとミニボードのセットだが,もともとはゲヘナの存在を教えてくれた,かの大先輩の遺品なのだ。こんな辺境の,平穏な星で暗視機能が必要になるとは思わなかったが,取材記者にはなくてはならないツールといえるだろう。
 訃報を聞いて駆けつけたアレンに,無言で息子の遺品を差し出した年老いた両親の姿が,ハンドルの感覚からいつも思い出されてしまう。そして,その先輩と常に行動を共にしていた,美しいシーサリア人の妻,セイラのことも。あの戦闘空域に2人して赴くとわかった時,俺はなぜ,反対出来かったのか。誤解されて縁を切られたところで,死なせるよりはましだったんじゃないのか?
 アレンは雑念を払うためにもう一度後ろの突起部を蹴り飛ばし,ボードのスピードを上げた。
 こんもりした木々の陰が飛ぶように消え,岩だらけのこの星本来の地表が露になったその先に,見覚えのある櫓が姿を現す。アレンはその傍でいったんボードを降り,櫓に立てかけて,念のためにと再びリストウオッチを覗き込んだ。バックライトに照らされた数字は,やはり昼間と全く変わっていない。アレンは意を決し,再びボードを駆って流線型の巨大な構造物に向かった。
 その外壁が視界を覆うところまで来ると,アレンは自分の予測が正しかったと確信が持てるようになった。周囲をぐるりと一周し,推測通りの位置に出入り口の扉も確認出来た。妙に丸っこくハッチのような形状の扉を引き開けて,躊躇なく中に入ると,天井に数本の太いパイプがくねっている。エントランスも何もなく,思った通り巨大な宇宙船の内部であることは,どうやら一目瞭然だ。
 ヒュウと短く口笛を鳴らし,アレンは暗視ゴーグルの感度を上げて,壁に明かりのスイッチがないかと探す。携帯用の原子ライトを持ってはいるが,この暗闇であの強烈な光をちらつかせ,誰かの注意を引くのは真っ平だった。船内照明なら輝度の調節が効くから,ぎりぎりの明るさにしておけば目立たないし,バッテリーを使い切っていなければ,かなりの時間点灯が持続するはずだ。
 思った通り,壁面の目につきやすい位置に,様々な形のスイッチ類の並んだパネルが埋め込まれている。その中のいくつかに触れ,思うスイッチを探し当てると,アレンはやっとゴーグルをはずした。リストウオッチのデジタル表示がかろうじて読める明るさに調節し,ふうっと息を吐く。全くこのゴーグルときたら,自分より頭が小さかったとは思えないあの先輩がよく我慢していたものだ。香港生まれのアレンはいつも,孫悟空とかいう大昔の猿になった気分にさせられる。いまいましいゴーグルと,乗ってきたミニボードをデイバッグに放り込み,次はブリッジにたどり着くための船内案内図を表示させるスイッチを探した。
 再び端からスイッチを試して,ほどなく右下の暗い画面に見慣れた流線型の船体の骨組みのような画像が現れる。その中の5,6箇所に,赤いポインターが輝いていた。
 間違いない。この光点のどれかがメインブリッジだろう。アレンはその一番上,流線型の頂上部分にバルコニーのように突き出した一角がそれだと読み,そこに通じる中央部分のリフトを先ず見つけようと,早速行動を開始する。
 やや右に傾斜した通路を進み,目指すリフトに乗り込んだ。数百年以上を経ているはずのリフトに不安はあったが,他に移動手段もない。
 リフトは現代では考えられないようなスピードでゆっくりと上昇し,永遠と思える時間が経った後,ようやく停止して,扉が開いた。
 広々としたメイン・ブリッジ。そこはやはり,アレンの読み通りの場所だった。またヒョウと短く口笛を鳴らし,一歩中に入ると,今度は堆く積もった床の砂埃が舞い上がって,咳込みそうになる。
 アレンはこれ以上埃を立てないようにゆっくりと,中央の一番大きな操作卓(コンソール)に歩み寄った。だがその上も,やはり見事な埃の山だ。仕方なく胸ポケットから取り出した薄型の防塵マスクを着け,手袋をはめた両手でコンソール上の埃を払い落とす。
 こりゃあかなりの年代物だ。アレンはマスクの中でもごもご言った。だが左上の小さなスイッチに,オレンジの光がともっているのが目に留まった。
 「メインコンピューターが,まだ生きてるってのか?」今度は大声で叫びながら,他のいくつかのスイッチを試してみる。すると手元のスクリーンに,入り口近くの操作パネルで見たものより,かなり詳細な船内見取り図らしき画像が現れた。アレンはいくつかのセクションを,さらに拡大して調べるうちに,とんでもない事実にぶち当たった。
 船体の中央部分,全体の約70%を占める面積が,生体の冷凍睡眠カプセル貯蔵庫で占められているのだ。それはこの船が,明らかにワープ航法以前の,隣の恒星系へ行くにも何世代もかかって旅をしていた時代の宇宙船だということだ。
 アレンの知っている歴史では,それは一千年近くも昔,宇宙時代の黎明期の物語だ。
 冷凍睡眠による宇宙旅行は,とかく不幸な事故の記録が多い。他に方法がなかったとは言え,生きた人間を何百年も眠らせるなど不自然極まりなく,生体管理コンピューターの気まぐれなバグやちょっとした宇宙嵐の揺れなどで,多くの睡眠カプセルがそのまま棺桶に取って代わってしまった。だから800年ほど前にどこかの星でワープ航法が開発されるや,巨大な流線型の宇宙船はあっという間に廃れていったのだ。
 アレンはしばし,呆けたようにオレンジ色の光点を見つめた。生きていたのはいにしえの生体管理コンピューター,つまり冷凍睡眠装置に関わる部分に違いない。生命維持装置とも連動するため,通常の手続きで簡単に解除出来るようになっていなかったらしいのだ。
 マトモに作動しているカプセルが残っているのかは分からないが,もしあれば,宇宙進出黎明期時代の誰かと,自分は対面出来るのだ。アレンの心は躍ったが,その前に見つけなければならないものがあった。ターナ議長が古文書と称していたものは,おそらくこの宇宙船のログ(航海日誌)の類に違いない。このメインコンピュータのどこかに,データが残っているはずだ。アレンはまたいくつかのスイッチを試し,それらしい長文の文字データが出てくると片端から自分のデータカードにロードしていった。
 年代物のコンピュータは時々ギシギシと奇妙な音を立てながら動き,そのためアレンは,背後のリフトの動作音に気付くことが出来なかった。
 開いた扉から音もなく滑り出た人影は,あっという間にアレンの背後に近寄り,手に持った何かをその後頭部めがけて振り下ろした。
 声も立てずに膝から崩れ落ちたアレンの身体を重そうに引きずりながら,人影はまたリフトに乗り込み,ドアの向こうに消えてしまった。


 翌朝,いつもの時間にキリアン・セータが迎えに行くと,ミスター・アレンの部屋はもぬけの殻だった。バスルームで身支度でもしているのかとしばらく待ったが,水音一つ聞こえない。キリアンは慌ててフロントに戻り,カウンターでミスターアレンの居場所を尋ねた。もちろんそこにいる誰も知らなかったが,ホテルのスタッフは皆,重大なこととは考えていないようだった。
 昨夜カウンターに立っていたスタッフの一人が,アレンが夕食を摂った後,出て行くのを見たという。声を掛けると,近くのバーへ飲みに行くと言ったらしい。いつも持たないデイバッグを背負っていたのでそれも尋ねると,原稿を書くための資料だと答え,飲みながら第一稿を仕上げたいと言い残していったそうだ。そのスタッフは,お客様はおそらくどこかで酔いつぶれておられるのでしょう,昼ごろまでに戻られなければ,神殿警察に話してみたらいかがですかと,にべもなかった。キリアンはガイド初体験でよく知らなかったが,このようなケースは旅行者には良くあることらしかった。
 ミスター・アレンは決して,酒に呑まれるタイプの人間じゃない。見逃したものはないかともう一度部屋に戻るエレベーターの中で,キリアンは後悔の涙とともに思い返す。
 昨日神殿を出てからのミスター・アレンは,今思えば確かに様子がおかしかった。古文書に関する情報が入ったのに,何も話しかけてこなかったのだ。無視するべき変化ではなかった。だが昨日のキリアンは,心が遠い過去をさまよっていた。だからと言ってミスター・アレンの身を危険に曝したとすれば,専属ガイドとして,自分は失格ということだ。
 部屋に戻ってみても,分かったのはスーツケースは元のままということぐらいで,手がかりになりそうなものは何もない。ドアの側に立ち尽くし,空っぽのベッドを見つめていたキリアンは,ローブの袖からナユタ学部長にもらったあのデータケースを取り出した。その存在を確かめるように握りしめると,意を決したキリアンはホテルを飛び出した。その足は一歩も迷わずに神殿に向かい,奉仕者が休憩を取るための建物に入っていくと,そこの受付係にこう尋ねる。
 「すみません,こちらにセスという人はいませんか?」
 受付係が誰かを呼びにやってくれ,ほどなくして背の高い,相変わらず黒っぽいベールを被ったままの男が現れた。キリアンは男の袖を引っ張って建物の外に連れ出し,ミスター・アレンのいきさつを話した。セスと呼ばれる男は不思議そうな顔でキリアンを見つめる。
 「なるほど,事情は飲み込めた。ミスター・アレンの身が危険にさらされてる可能性があると,君は思ってるわけか。しかし,どうしてそれを私に話す気になったのかな,キリアン。」
 キリアンは本当は叫び出したかったが,周囲の誰にも聞こえないように声を落として答える。
 「だって,頼れる人をあなたしか思いつかなくて…。リオン兄さんでしょう? どうして僕にまで隠してるの?」
 セスは一瞬凍りつき,ゆっくりと息を吐きながらキリアンの両肩に手を置いた。
 「やっぱり,お前だけは騙せないんだ,いつもね。」
 「久し振りだね,兄さん。それとも,ずっと前から会ってたのかな。」
 「そうだな,たまに遠くから,見かけたことはあったよ。お前はいつも友達に囲まれてて,だから全然心配したことはない。」
 「でも僕は…ずっと会いたかったんだよ,兄さん!」
 語尾が涙声になって消えると,リオンがキリアンの肩を抱き,2人はそのまま,しばし立ち尽くした。やがて兄がキリアンを導き,神殿の別の建物,司祭長のプライベートな礼拝堂の方に向かって,ゆっくりと歩き出した。


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