マリウスの宝石(第8話)
 …歌が聞こえる。
 歌詞がよく聞き取れないが,メロディには聞き覚えがあった。アレンはこの歌を教えてくれた人物のことを思い出したが,歌っているのは別の誰かだ。こんな見事なバリトンは,アレンの記憶にはない。声の主を確かめたくて目を開けようとしたが,なぜか異様に瞼が重かった。
 ありったけの気力をかき集め,何とか瞼を押し上げるのに成功すると,今度は自分が銀河の中心にでもなったような気分が襲ってきた。向かいの壁がぼんやり見えたのも束の間,世界の全てが渦を巻いて,ぐるぐる回り出したのだ。何度か目をしばたたき,回転を止めようと頭を振ると,声の主らしい男に力強い両手で肩を掴まれ,動きを封じられた。
「急に動く奴があるか,眩暈がひどくなるぞ!」
 男の言った通りになった。微かな吐き気も手伝って,アレンの呼吸が荒くなる。男は肩を掴んでいた手を放し,今度は胃のあたりにそっと片手を当ててくれていた。
「ゆっくり呼吸しろ。そのうち吐き気も収まるから。
 一時はあぶねえかと思ったが,目が覚めたんならもう大丈夫だ。」
 言われた通りにゆっくりと呼吸を整え,こみ上げてきた苦い液体を飲み下すと,ようやく人心地がついた。今度は頭を振らぬよう用心しながら,慎重に身を起こす。
「…水をくれ。」
「ほいきた。冬眠カプセル内の,非常持出用の水だが我慢しろよ。…まあボウフラが一千年も生き残るとは思えないが。」
 手渡されたコップの中の液体を,まさに飲み下すところだったアレンは,驚いて水を噴出し,激しく咳き込んだ。男の高笑いが耳に痛い。
「あんた,よく引っかかってくれたな。一千年も前の水が,蒸発もせずに残るもんか。安心しろ,そりゃ俺の飲料水用にさっき合成したもんだ。」
 男はアレンが水を飲み終えるまで,またあのメロディをハミングしていた。髪もひげも伸び放題で,顔の輪郭がはっきりしない。シャワーも長いこと浴びていない様子だが,眼光だけはやけに鋭かった。
「さっき冬眠カプセルとか言ってたが,あんたは誰で,ここはどこなんだ?」
「記憶力が戻ってるようだな。だったら大体の察しはつくんじゃないか?」
 男は謎めいた言い方をした。アレンはまだ自分のもののように思えない身体を伸ばそうと片手を後頭部に持っていき,思わぬ激痛に飛び上がる。男の高笑いが,また耳に痛かった。
「こりゃ悪かった,教えといてやるべきだったな。ほんとにひどく殴られたもんだ。アタマの後ろに,でっかいこぶがあるぞ。」
 アレンは小さく溜め息をつくと,ポケットからガーゼを取り出し,さっきのコップに少し残った水に浸して,そろりそろりと後頭部にあてがった。触れた瞬間,また飛び上がりそうになったが何とかこらえ,暫くそうしていると痛みはかなり治まってきた。
「俺の“冬眠カプセル”って言葉にピンと来たなら,ここがどこか,あんたはもう知ってるはずだ。だったらあんたはもしかして,俺のこと探しに来てくれた出版社の人かい?」
「出版社? 何の話だ?」鸚鵡返しに返事をしながら,浮び上がった一つの可能性に,アレンは呆然となった。
 ゆっくりと慎重に頭を回し,男の顔を覗き込む。眼光の鋭さを差し引いても,見た目の年齢はどう見ても50歳そこそこだ。間違っても60歳を超えてはいないだろう。
「俺の考えてる人物だとしたら,あんたは70歳は超えてなきゃならない。どう見ても計算が合わないが…。」
「だから“冬眠カプセル”と言ったろうが。」男はいたずらっぽくウインクしながら,親指を立てて天井を指さした。その先を追ってゆっくりと視線を上げたアレンの目に,天井を覆い尽くす蜂の巣のような仕切り穴と,その中に収まった夥しい数の冷凍睡眠カプセルが飛び込んできた。再び眩暈に襲われそうになり,額に手を当てると,男が背中に手を添え支えてくれていた。
「あんな古いカプセルに,閉じ込められてたのか? まともに動くとは思えんが…。」
「まあ,故障したおかげで脱出出来たようなもんでな。しかし外界じゃ,もうそんなに年月が経ってるとはねえ…。まさにネルヴァってのは,独特の理想郷だが…」
「…“その意味するところは,穏やかな牢獄である。”」アレンが後を引き取ると,伝説の詩人,フォレスト・ゲヘナが破顔した。
 アレンは驚きに打たれ,思わず空いている方の手を差し出すと,ゲヘナ氏は何の躊躇もなく握り返してくれる。だがその瞳に一瞬,訝るような影が浮かんだ。
「…しかし,出版社の人でないなら,あんたは何でここにいる? 書いた本人も行方を知らない詩の一節を暗誦してるってのも,考えれば妙な話だ。」アレンは顔から火が出る思いだった。
「これは失礼,こっちがまだ名乗ってなかったんだよな。俺はピーター・アレン,アンドロメダからこの星に招かれた,ただの旅行記者さ。」
「なるほど,アンドロメダ市民ってわけか。そのあんたが,ここでは誰も知らないはずの俺の詩を暗誦するってことは,ちゃんとオリオンまで届いて,出版されてたんだな。司祭長のじいさんが,命がけで約束を果たしてくれた証拠だ。感謝しなきゃならんだろうが…」
「ちょっと待った,じいさんって,前任のラオ司祭長のことか?」
「他に誰がいる?」
「命がけって,何のことだ? 病気で亡くなったと,記録にあったが…」
「正確には突然の病,だろうが。頭が良すぎて,ターナ補佐官に毒殺されたんだよ。」
「補佐官? ターナって,ヨナスの長老議長フェレイアス・ターナのことか?」
「やれやれ,とうとうそこまで出世したか。俺が知ってた頃は,ヨナス地区に数人いた議長付補佐官の一人だった。だが運の悪いことに,原発跡地だと言われたこの宇宙船に,神殿の命を受けて最初に極秘調査に入ったのが,彼だったんだよな。」
「そんな調査があったのか…。キリアンはおくびにも出してなかったが。」
「そいつはあんたのガイドだな? 一般市民に知らされないのは当然さ。
 恒星間航行の文明がないとはいえ,観光客の船を見慣れてるんだ。中に一歩でも入りゃ,原発の話が出鱈目だと,ターナもすぐに察しがついたろう。自分たちはナノに創られた民なんかじゃない,ただの宇宙移民だと気付かされたんだろうな。」
「神殿には,ちゃんと報告されたのか?」
「真実のままにってことか? 先ず,あり得んだろうな。」
「だから古文書なんか,登場させたのか…。」
「その通りさ。ターナの奴,うまい事やって,神殿の権威を失墜させようって魂胆だ。ネルヴァじゅう大混乱になったところで,都合よく翻訳された古文書を引っさげて登場すればいい。ところがそれが,ラオじいさんとこの俺に知られちまったのさ。だからじいさんは殺され,この俺はご丁寧に冬眠カプセルまであてがわれちまって…おい!」
 アレンの身体が,一瞬左右にふれたと思うと,そのまま前のめりに突っ伏した。ゲヘナに両腕で支えられ,意識を完全に失う寸前,何とか唇を動かす。
「キリアン…あの子に伝えなきゃ…。俺のせいで…。ターナのところに駆け込んだりしたら…。」
 ゲヘナはアレンの身体を,操作パネルの埋め込まれた壁際にそっと横たえた。そして躊躇なく,ボタンの1つに指を当てると,アレンに向かってささやいた。
「安心しろ。こっちにも,ちゃんと手はある。」


 キリアンが兄に導かれて小さな礼拝堂に入ると,中には既に,ガー司祭長が待ち構えていた。
「どうやら私は,ご兄弟の対面シーンを見逃してしまったようですね。」
 キリアンが驚いて顔を上げる。
「兄だと,ご存知だったんですか?」隣で口を開きかけたリオンを制して,司祭長が話し出した。
「キリアン君には,私から詫びなければなりません。あなたのお兄さんをこの仕事に引っ張り込んだ張本人は,この私なのです。
 彼は大学時代の先輩で,最も信頼できる一人でした。私は様々なことを,それこそ人には言えないような内容の話まで,リオンになら打ち明けることが出来た。アドバイスも,常に適確でした。
 だから私は,端末の無記名ファイルから出てきた,ラオ司祭長の秘密日記でターナ議長の陰謀を知った時,迷わず彼に打ち明けたのです。彼はそれなら,自分が地下に潜って議長を監視しようと言ってくれました。
 私から彼にそんな命令を下すことは,到底出来なかったでしょう。彼にはそれが分かっていたから,自分から志願する形を取ったのです。」
「それじゃ,兄さんが死ぬ事になった,とある星の要人暗殺事件って…。」キリアンは目の前の司祭長から,右隣の兄の横顔へと視線を移しながらつぶやいた。
「全部こっちのでっち上げさ。もちろんターナのじいさんは自分で仕組んだと思ってるだろうけどね。」
 いたずらっぽい兄の笑顔を,キリアンは夢見心地で見つめていたが,それは突然,出会ったばかりの,もう一人の誰かの顔と二重写しになった。ミスター・アレンの身に何かあったら,後悔してもしきれない…。
「…リオン・セータとしての存在を消し,ご家族にも隠れて,二重スパイとしてターナ議長の指揮下に潜り込んでもらいました。若い彼には,それがどんなにつらい仕事だったことか…。」
 既にキリアンの耳に,司祭長の声は届いていない。歯を食いしばってもこらえきれない涙の筋が,頬をつたいはじめた。司祭長が言葉を止めて顔を曇らせ,兄に目配せする。
「キリアン,ミスター・アレンの居場所なら,実はもう分かってるんだ。必ず助け出すから,協力して欲しい。」
 キリアンははじかれたように兄を振り返った。
「どこに? ミスター・アレンはどこに連れて行かれたの?」
「昨日,原発跡にご案内したそうじゃないか。たぶん彼は,昨夜あそこに何かを確かめに行って…。」
「原発跡? ミスター・アレンはともかく,あそこにネルヴァの人間が入り込んでいるってことなの?」
 今度は司祭長が,あとを引き取った。
「ターナ議長の言う古文書が出てきたのが,あの原発跡の建物だったらしいのです。きっとミスター・アレンはあの建物を見て,既に何かに気付いていたのでしょうね。」
「司祭長,ところでカプセル1号からの,今日の定時連絡は?」
「残念ながら,今日はまだありません。このところ途絶え気味ですが,事態が動けば…」
 言い終らぬうちに,傍の司祭長の端末が鋭い音を立て,続いてバリトンのハミングが流れてきた。
「カプセル1号,また歌ですか?」
「司祭長,スピーカーに。」
「おお,そうでした。」リオンの一言に司祭長がスピーカーのスイッチを入れ,端末に屈み込まなくても聞こえるようにした。
『司祭長さん,実はさっき,お客さんが目を覚ましてな。アンドロメダの旅行記者だと言ってたが…』
 キリアンが韋駄天のごとく端末に駆け寄り,乱暴に司祭長を押しのけた。
「ミスター・アレンだ! ご無事なんですか?」リオンがそんなキリアンを咎めようと口を開いたが,司祭長は手を上げて制し,
「彼はそのゲストの専属ガイドです。知る義務があります。」と,言い添えてくれた。
『おお,君がキリアンか。そのミスター・アレンが心配してたんだ。あんたがターナのとこに駆け込んだら大変だってな。』
「お願いです,ミスター・アレンと話させて!」
『残念ながら,ちょっと前にまた昏睡に入っちまった。おしゃべりが長すぎたかも知れん。』
「こ,昏睡って…どうして?」
「カプセル1号,ミスター・アレンはご無事なんですよね?」司祭長は努めて冷静な声で,キリアンを落ち着かせようとしている。
『まあ,命に別状はないと思うが,頭をひどく殴られてんだ。医者に診せる必要はあるだろうな。』
「カプセル1号,他にそちらで変わったことは?」
『特にはないが,ターナのオヤジを逮捕するなら,早い方がいいだろう。ミスター・アレンに知られたことで,かなり追い詰められてるようだぞ。』
「そうなると行動予測が立ちにくい。危険かも知れません。」後ろからリオンが緊張した声を出した。
「分かっています。計画は明朝,実行に移しましょう。」
『了解。こっちは言われた通り,準備は整ってるぜ。』
 キリアンはこのやり取りを,半分も聞いていなかった。頭にあるのは,ミスター・アレンがひどく殴られ,医者が必要ということだけだ。
「キリアン,どこへ行くんだ?」無意識に出口の扉に向かっていたキリアンは,兄の声で立ち止まった。
「聞いてただろう。明日にはミスター・アレンを救い出せる。幸い命に別状はなさそうだし,きっと大丈夫だよ。」
 そうかも知れない。だがキリアンは,眠れぬ夜を朝まで待つ気持ちには,どうしてもなれなかった。
「分かってる。実は僕,これからホテルに行こうと思うんだ。明日助け出されるなら,そのまま入院かも知れないでしょう? ミスター・アレンの荷物を取って来ておいた方がいいと思って。」
「それはいい。よく気が付くガイドだって,彼も喜ぶだろう。」兄は笑顔で,その姿を見送った。
 礼拝堂を出たキリアンは,信徒奉仕者用の駐車場で反重力スキマーを見つけ,飛び乗ると直ちに発進させた。
 いつの間にか夕刻が迫り,ホリゾンド外の風が弱まり始めている。ピンク色に変わりつつあるその空を,キリアンの駆るスキマーが猛スピードで切り裂いていった。


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