アンドロメダの歌姫(第5話)
 ペールギュント組曲の「朝」が鳴り響き、爽快な気分で目覚めると、同時にアロマの香りが漂って来た。
 豊かな香りの空気を思い切り吸い込みながら身を起こしたアレンは、ブラウンにいい嫁になれるぞと言ってやったものかどうかと考えながらジャンプスーツを着込み、カプセル式のベッドを出る。
 若い探偵はすでにテーブルにつき、客室サービスの朝食メニューである果物の盛られた大皿から、自分用の小皿に取り分けているところだった。
 「おはようございます、ミスター・アレン!」
 「さっき船内アナウンスで、当初の予定通りにアルゴル星系に入ったから、1時間後にワープを解除して通常航行に入るって知らせがありましたよ。」
 「なるほど。それで目覚ましモードになったわけか。」
 アレンも椅子にかけるなり、大皿から大きめの果物を引っ掴むと皮も剥かずにかぶりつく。ふと視線を感じて顔を上げると、若い探偵が穴の開くほど見つめている。思わず睨み返すと、その手許の皿にはきれいに剥かれた皮が、揃えたナイフとフォークの下にキチンと折りたたまれて鎮座している。やれやれ、育ちが違うとはこういうことか。アレンはそのまま食事を続け、コーヒーを飲み干すとナプキンで口と手をぬぐいながら言い訳した。
 「あのな坊や。宇宙ではいつ何時、コトが起こるか分からないんだ。礼儀正しいのは大いに結構だが、食事はなるべく素早く食べろ。ご丁寧に皮を剥いてる間に何かあったら、口に入る前に荒涼たる砂漠に不時着して、その後何日も食い物にありつけんかも知れん。」
 「お言葉ですが…僕なら手や顔を果汁でベトベトにしたまま放り出されるのはご免です。空腹を我慢する方がずっとましですよ。」
 思わぬ反論に、アレンは目をしばたたく。こりゃあ筋金入りのお坊ちゃまだ。
 「我慢できるレベルならいいんだがな。」
 一方的に議論の応酬を打ち切り、立ち上がると食べ終わった皿やカップをキッチンに運んだ。ブラウンもいつの間にか自分の皿を持ってついて来て、洗浄機に入れる作業を手伝ってくれる。コイツの親は、全く上手く躾けたものだとアレンは感心しないではいられない。
 「ギリシャ神話って、ご存知ですよね?」
 洗浄機がうなり始めると、若者が唐突に切り出した。
 「勇者ペルセウスとアンドロメダ姫だな。読んだのか?」
 「ゆうべ、寝物語にちょっと。」
 キッチンを離れた二人は、居間に戻ると食事を摂った時とは別の、シートベルト付きの衝撃吸収チェアにもぐりこみ、ワープアウトに備える。
 「僕、DNAは地球人でも生まれがアンドロメダなもので、遠すぎてまだ一度も地球を見たことがなくて。地球から見える星座についても、学校で習った知識でしかなかったんです。
 だからギリシャ神話のことを知った時はびっくりして…。」
 「まあ、最近は俺たち地球生まれだって似たようなもんだがな。神話の話が通じるのは古代文明の研究者か、一部のゲン担ぎや迷信深い連中だけになっちまった。」
 「あなたはゲン担ぎにも、迷信深い連中にも見えませんけど、どうしてご存知なんですか?」
 「俺の場合は、ただの知りたがりだ。これから自分の訪ねる銀河や恒星に、どんな謂れや伝説があるのか、どうしても知りたくなっちまう。またそういったものを読んでると、どんなつまらん仕事でも胸が躍るようになるから不思議なもんだ。」
 「『太陽系外の歩き方』にも書いておられますよね。これから訪ねる場所の、ありとあらゆる物語を知っておくのが重要だって。」
 「おいおい、そんな大昔の本、どこで手に入れたんだ? 発売されたのは俺が20台の頃だから、君が生まれるずっと前だぞ。」
 「まだ言ってませんでしたっけ? 母があなたの大ファンで、今回のバイトには大喜びしてるんです。
 『…有史以前からの物語や伝説など、知ったところで実際にはなんの役に立つこともない。その星の食べ物が旨くなるわけでも、風景に美しさが増すわけでもないが、確実に多くの切り口や視点を我々に与えてくれる。それこそが宇宙旅行の醍醐味だ。』」
 アレンが参ったな、というように片手を後頭部に持っていく。若い探偵はそんな彼を面白そうに眺め、先を続けた。
 「あなたの本を読んでなかったら、今回ギリシャ神話にも出会わなかったでしょうね。だけど、勇者ペルセウスの持つメデューサの首であるアルゴルがほんとに二重連星だなんて、偶然とはいえ不安を掻き立てられますねぇ。この二つの目ン玉に睨まれたら、僕らも石にされたりして。」
 アレンはたまらず吹き出した。
 「それはない。絶対ないね。」
 「そりゃ僕にだって、非現実的な不安感だということはちゃんと…」
 「いや、そうじゃないんだ。
 船乗りにはゲンを担ぐ人種が多いって話だが、宇宙船でも同じなんだよ。つまりペルセウス方面へ向かう船の窓という窓は、どれもちゃんとマジックミラーになってるわけさ。こっちからは向こうが見えるが、向こう側は鏡になってて、見られる心配はなし。勇者ペルセウスに倣ってメデューサの力を相殺してるから、石にされる危険は絶対ないってことなのさ。」
 「それを聞いて、生き返りましたよ。」
 大げさに息を吐いて見せた若者の瞳が、心底楽しそうにきらめいている。アレンも若かった頃の取材旅行の胸躍る気分を、完全に甦らせていた。
 「だけどもう一つの悪霊の方は、野放し状態なんですね。悪魔の名を持つ恒星系の惑星に、ダメ押しで悪霊を持って来なくても良さそうなものですが。」
 「第5惑星、レギオンか。まあ命名する方も何かと大変なんだろうけどな…」
 「豚がたくさん、いたりして。」
 「あり得るぞ。その昔は鉱物資源が豊富でかなり栄えてたらしいが、今では枯渇して訪れる者もなく、流れ着いた坑夫たちの子孫が、地熱を利用した農業で生計を立ててる星らしい。」
 「農業だからって、豚を飼ってるとは限らないのでは?」
 「飼ってるさ。賭けてもいい。」
 「なんたって“レギオン”ですもんね。」
 ブラウンがそう言って肩をすくめた瞬間、最初の衝撃が来て、二人はおしゃべりを止めた。ワープアウトの瞬間に一瞬だけ広がる虹色の衝撃波は、どのガイドブックでも恒星間航行の名物として最初に挙げているほど、見逃すには惜しい美しさなのだ。


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