アンドロメダの歌姫(第16話)
ミランダ・ニコルは回転する球体を見つめていた。
その中心部、特異点の彼方に拡がる世界から、何かの感情が湧き上がっているのが感じ取れる。それはこの宇宙に生を受けた全ての生命の根底に巣食う、恐怖と呼ばれる感情だ。
彼らの種族は絶滅の危機に瀕している。彼ら自身の貪欲さが、周囲の宙域の餌となる知的生命体の存続を脅かし、ほぼ一掃してしまったからだ。
だからこの特異点につながった別世界は、彼らにとって希望の新天地となるはずだった。
忘れられた鉱山惑星の地下深くで、時々迷い込む単一生殖で産まれた坑夫たちのささやかな夢を食って満足していた彼らにとって、ドクター・カナエの誇大妄想的名誉欲は、どれほど美味だったことだろう。
だがフィルモア人フリント・ロイズをはじめとする、自らの思考や思念波をブロック出来るエムパスの存在は、想定外どころか、彼らを再び恐慌に陥れる重大事となってしまった。いつどうやって、彼らの世界に報復者が現れるか分からないという恐怖である。
その恐慌が捨てばちな憎悪と食欲に変わり、今まさに溢れ出ようとしていた。
ミランダは彼らに筒抜けになるのを避けるため、自らの力やこれからの行動について、誰にも告げずにここまで来た。
彼女が球体の前に立ち、優雅な動作で両手を合わせて印を結ぶと、周囲に清浄な気配が満ちた。そして彼女が歌い始める。
確かに、彼女のエムパスとしての力は弱い。だがその歌声は、シャーマンの語る言霊と同じ力を宿していた。
息子のJMは早くからその事実に気付き、僕は母さんの歌声で育ったようなものだとよく話してくれたものだ。選んだ曲はその息子にもよく歌ってやった、シーサリアの子守唄だ。
低音域からゆっくりと高音へと盛り上がり、再び低音域に戻ってくるこの曲は、独特の物悲しさに満ちており、ピーター・アレンのお気に入りだった。まだロイズやミランダに出会うずっと以前、今のJMと同じくらいの年頃だった彼が初めて恋した、シーサリア人の少女がよく歌っていたという。
この歌を彼女が歌う時、込められた思いをピーター・アレンは知っていたはずなのに…。
ミランダの歌に呼応するように、球体の回転速度が変化し、旋律に合わせたゆっくりしたものになった。それにつれて、際立っていた恐怖感が薄れてゆく。ミランダは繰り返し何度でも、子守唄を歌い続ける。
特異点の向こう、薄暮の中間地点では母の歌声でブラウンが力を回復し、アレンの状態を何とか安定させることに成功していた。
力自慢のフリント・ロイズがその身体を担ぎ上げ、歌声とともにリストウォッチに届けられた座標目指して、移動を開始する。
小一時間も歩き続けてその場所が近づくと、トンネルの出口のように明るい場所が数メートル先に現れ、そこから回転する球体からのものと思われる閃光が、サーチライトのように間歇的に射し込んで来る。
そこまで来ると、ロイズが急に立ち止まり、担っていたアレンをそっと横たえた。
「ええと。悪いが私は、ここに残ることにするよ。」
「何だと? ロイ…」
色めき立って身を起こしたアレンだが、ゴボッといやな咳をして、ブラウンが慌ててその胸に手を当てる。
「連中も眠りに就いた頃だろうから、そろそろあんたに話して大丈夫だと思うが、実はミランダは歌で奴らに催眠術をかけてるんだよ。目覚めた時には、この特異点のことは忘れるような暗示をかけてな。だが結果のほどは、連中が目を覚ましてみないことには判断出来ん。この中間地点は、ちょうどいい監視小屋って訳なんだよ。
それであんたに最後の頼みなんだが、そのリストウオッチを譲ってくれんか? それがあれば、何かあったらここから警告出来るようになるんだが。」
もちろん、アレンも簡単には従わない。
「このウォッチは譲れない。先輩の遺品だと言ったろうが。だとすれば、残るべきなのは連絡手段を持ってるこの俺ってことじゃないか?」
フリント・ロイズは天を仰いだ。
「全く、地球人てのはこれだから困る。物事を感情で判断するとロクなことにならんと言うのに。
思考をブロック出来ないあんたが残って、何の意味がある? 第一、治療しなけりゃ連中が目覚める時まで生きていられるかどうかも怪しいもんだぞ。」
不本意ながら、アレンとしてもロイズ氏に分があることは認めないわけに行かない。だが…
「…それじゃあんまり、不公平だよロイズ。」
「そう言ってくれるのは有り難いがね。そもそもここに飛ばされた当初から、実は考えてたことなんだ。私なら、向こうにいる連中の裏を掻くことが出来る。これは宇宙の神の思し召しじゃないかってね。」
アレンは老友の姿を心に刻もうとその顔を見上げ、黄金色の瞳の奥に隠された思いを見つけた。
「…恩に着るよ、ロイズ。」
「それはさっき、もう聞いたぞ。」
「今のは俺じゃない。この世界の全ての人たちの声さ。」
ロイズが静かに頷いた。アレンはゆっくりと自分の腕からリストウォッチをはずし、差し出された彼の掌に載せる。ブラウンは大粒の涙を流し、それでもじっと、アレンの胸に手を当て続けてくれていた。
「いつかまた会おう、ロイズ。」
ブラウンの肩を借り、何とか立ち上がったアレンが手を差し伸べる。握り返すロイズの手は、大きく暖かかった。
「ここは時間があって、ないような空間だからな。いつまでも待っとるよ。」
ロイズと別れた二人が薄暮のトンネルを抜けると、そこは元の『入り口』広場に間違いなかった。アレンはブラウンの肩を借りてはいたものの、自力で歩いたために激しい眩暈に襲われ、ミランダの無事な姿を認めると糸が切れたように崩れ落ちた。
ミランダはガフとアーカムを呼びに走り、ブラウンが球体に目を向けると、周囲の磁場は安定しているものの、中心の黒点部分は最初に見たときの半分以下の大きさに収縮していた。
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